2月17日の灰の水曜日より四旬節に入りましたが、本年度はコロナ禍の中、密を避けるため例年のような黙想会は実施されません。
黙想会はできませんが、個人個人が自分と神様との関係を見つめ直し、復活の主日をふさわしく迎える準備ができるよう、毎週、ホン神父さまより四旬節黙想のプリントが届きます。

2021年四旬節黙想1

四旬節は神様との関係を新しくする恵みの時期と言えます。
神様との関係を新しくするためには、いくつかのものが必要ですが、私は今年の四旬節の黙想として3回に分けて3つの質問を皆さんと一緒に黙想したいです。

 

「´霊´はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」

 聖書では「荒れ野」という単語が「砂漠」という単語とほぼ同じように使われていますが、 荒れ野は乾燥して人が住みにくい不毛の地を意味します。
 それでは、聖霊がイエス様を荒れ野に行かせた理由は何でしょうか? そこに救援しなければならない人間がいるからです。 荒れ野はのどが渇いて、空腹で、さびしくて、寂しい場所です。荒涼とした所です。しかし、そこが神様に出会う場所でもあるのです。 あらゆる誘惑があるこの世界が 荒れ野です。この世にイエス様がいらっしゃって、自ら誘惑を受け私たち人間が処している状況から人間を救ってくださいます。イエス様が誘惑されたから誘惑された私たちを理解してより大きな愛で支えてくださいます。だからといって、人間の弱さをあまりにも簡単に誘惑にさらさないでください。 出来るだけ誘惑される機会は避けてください。なぜなら、人間は完璧ではないからです。
 

イエス様も神の国を宣言する前に、荒れ野で40日間祈りながらサタンに3回誘惑されした。 しかし神様は天使たちを送ってイエス様の世話をするようにして、イエス様を保護しました。そしてイエス様も神様のお言葉でサタンの誘惑に打ち勝ちました。このように 荒れ野は多くの誘惑の中で自分の弱さに向き合う場所であり、同時にそんな中でも私たちを守ってくださり、面倒を見てくださる神様の愛を体験する場所です。

 今日、福音の中で 荒れ野の意味を黙想し、皆さんと分かち合いたい最初の質問は「私はどこにいるのか?」という質問です。 イエス様は誘惑がある場所、大変で、辛い、疎外される人たちが生活する荒野で生活しながらサタンの誘惑を受け、その誘惑を神様のお言葉で打ち勝ちました。

最近の社会は、荒れ野の不自由な生活よりは、快適な生活を望んでいます。誘惑されるよりは全てが楽にできる生活を望んでいます。しかし、私たちが忘れてはならないことは、神様のお言葉を宣言するために、私たちは必ず荒れ野の生活を過ごさなければならないということです。
 私たちは今どこにいますか。神様のお言葉、私たちのためにサタンに誘惑され、その誘惑を神様のお言葉で打ち勝ったイエス様のいらっしゃる 荒れ野でしょうか? それとも世の中の快楽とサタンの誘惑が溢れ、その快楽と誘惑に負けて苦しむ場所ですか?
 

「私はどこにいるのか」この質問に対する答えを、神様の中で、イエス様の中で、聖霊の導きの中で、自ら私がいるべき場所はどこかを深く黙想しましょう。