10月11日・年間第28主日 マタイ22章1~14節  神の国への招待

今日の箇所も先週の続きです。やはり祭司長や長老たちに向けたたとえ話として語られています。王が家来を送り、町の人々が招きに応えず、家来を殺してしまうところは先週と共通しています。やはり王は神さま、家来は預言者を表しています。招きに応えなかった町の人々は、イスラエルの民、とくに祭司長や長老たちをはじめとする民の指導者であると考えられます。

王は王子のための婚宴を催すのですが、王子はイエスを表しています。「婚宴」はたびたび神の国の象徴として語られます。イエスが伝え、始められた神の国への招待であったわけです。ところが彼らは招待を拒否します。「招いておいた人々」とは、最初に招かれた神の民イスラエルを表しているのでしょう。
ではなぜ彼らは招待を無視したのでしょうか。イエスが伝えた神の国は、貧しい人、苦しみを受けている人、罪人とされている人、体の不自由な人が中心となる世界でした。ところが、イスラエルの指導者たちは、そのような人々を見下すことによって自分たちの立場を守っていました。だから、イエスがそういった人々に福音を告げ、罪人たちと食事をしているのを見て、イエスの言葉に耳を傾けようとしませんでした。そんな人々の仲間にはなりたくないという思いもあったことでしょう。それで、せっかく神が用意された神の国に加わるのを拒否したのです。

王が「人殺しどもを滅ぼし、その町を焼き払った」とは少しやりすぎのような気がしますが、おそらく福音書が編集される際に、エルサレムの滅亡と神殿の破壊のイメージがつけ加えられたのでしょう。いずれにしても、神の国の福音は、イスラエルから異邦人の世界に広がっていくのです。マタイは婚宴に神の国の福音を伝える教会の姿を重ね合わせていたようです。
婚宴には善人も悪人も集められます。神の国は善人だけに開かれたものではなく、悪人であっても招きに応えた人はだれでも入れるのです。わたしたちは、自分の基準で善人・悪人を判断しますが神の基準は違います。すべての人が神の呼びかけに応えて来るのを、または考え直して来るのを待っておられます。だから、自分たちだけが神にふさわしいと考えていたイスラエルの指導者階級の人たちは、神の国への呼びかけに応えることができませんでした。それでも神は彼らも考え直すことを待っておられます。

京都教区の各教会では、限定的ですが公開ミサが再開されました。多くのみなさんが心待ちにしておられたことでしょう。けれども、「ミサに来ることができてよかった」で終わるのではなく、教会は神の国にすべての人を招くためにあることを忘れてはなりません。わたしたちひとりひとりは、神の国の婚宴への招待状を預かっているのです。(柳本神父)