10月25日・年間第3主日 マタイ22章34~40節  見えない神を愛するには

先週の福音の「皇帝への税金」の問答のあと、復活についての問答があり、そのあとに今日の箇所が続きます。律法学者や長老・祭司長、ファリサイ派といったユダヤ教の指導者たちとの問答の結論にあたる内容であるといってもいいかもしれません。

ファリサイ派の人々や律法学者にとって、律法を守ることは生きがいのようなもので、とくに細かい掟まできちんと守ることに誇りを持っていたようです。ですから、彼らにとって、律法はどの掟も大事でした。彼らは、イエスが安息日に病人をいやすなど、律法の細かい掟にこだわっていないのを見て、「どの掟が最も重要でしょうか」という質問をしたのでしょう。
それに対するイエスの答えは、「最も重要な第一の掟は神である主を愛することであり、同じように重要な第二の掟は、隣人を自分のように愛することである」というものでした。指導者たちが律法を守るのは「神を愛する」しるしであったわけですが、残念ながら彼らは律法を守れない人々を見下していました。病気の人、体の不自由な人、貧しい人たちを無視し、自分たちだけが神に相応しい者と考えていました。それでイエスは「隣人を自分のように愛することが重要だ」と言われたのです。

わたしたちにとって、「神を愛する」のはどうすることでしょうか。祈ること、秘跡にあずかること、どれも大切です。けれども、それで満足していたとしたら、イエスの時代の指導者たちと同じあやまちをおかしてしまうことになります。
そこで神さまの気持ちを考える必要があります。自分の大事な人が大切にされていると嬉しいですよね。ないがしろにされているのを見ると悲しくなります。神さまも同じです。神さまはわたしたちひとりひとりを大切にし、愛しておられます。ですから、神さまも愛する者同士が愛し合っていると嬉しく思われるでしょうし、憎み合っていると悲しく思われるでしょう。隣人を愛することは神さまに喜んでもらうことなのです。

教皇フランシスコは、「隣人を愛さずに神を愛することはできません。神を愛さずに隣人を愛することはできません」と言われました。では、神を知らない人は隣人を愛することはできないのでしょうか?
 わたしたちが人を愛することができるのは、神さまから愛をいただいているからです。人を愛するとき、わたしたちは無意識のうちに神からいただいた愛を使っています。目の前にいる人に対する愛おしさ、共感、あわれみ、いつくしみといった気持ちは、わたしたちが神さまから愛されているがゆえに持つことができる気持ちだといえるでしょう。隣人を愛するとき、わたしたちは知らないうちに神さまと出会っているのです。
そのように、神への愛と隣人愛は、分かちがたく結ばれているのです。  (柳本神父)