1月10日・主の洗礼 マルコ1章7~11節  父はわたしたちのことがかわいくてたまらない

今日はイエスが洗礼を受けられたことをマルコの福音を通して記念します。マルコの福音書では冒頭に洗礼者ヨハネが登場し、悔い改めの洗礼を授けます。そしてイエスも洗礼を受けられ、荒れ野で誘惑を受けられたあと、宣教生活に入られます。それまでは家族と過ごす私生活の日々でした。それで、イエスの洗礼は私生活から公生活に変わる節目の出来事であったということができます。

 マルコ1章4節に、ヨハネは「罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を宣べ伝えた」と記されています。イエスは神の子でありながら、なぜ悔い改めの洗礼を受けられたのでしょうか。ましてや、罪の赦しなど必要なかったはずです。
「悔い改め」という言葉は「悪かったことを反省し、改める」というイメージがありますが、もともとは「向きを変える」「場所を変える」というような意味だったようです。ヨハネが伝えた「悔い改め」も、「救い主が来るから心を神のほうに向けなさい」という意味であったのでしょう。
イエスの場合は神の子ですから、心の向きを変える必要はなかったはずですが、洗礼を通してわたしたちのところに来られた、すなわち「場所を変える」という意味があったのではないでしょうか。すでに降誕によって人間としてわたしたちのところに来てくださっているのですが、主の洗礼の出来事はその再確認であったともいえます。

洗礼のあと、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から聞こえました。わたしの友人の晴佐久神父は、これは神さまがわが子に対して「ああ、かわいい、かわいい、おお、いい子だ、いい子だ」と言っているのだ、と翻訳しています。たしかにそのほうが、かわいくってしかたがないという親の愛情が伝わってきますね~。
これはイエスの父である神のことばです。そしてイエスはご自分の父のことをわたしたちにも父と呼びなさい、と教えられました。ということは、父なる神はわたしたちにも「ああ、かわいい、かわいい、おお、いい子だ、いい子だ」と言っておられるわけです。
さらに、天が開けたとは父なる神とわたしたちがつながったということです。ここでは洗礼者ヨハネが代表して同席していますが、イエスを通して天はすべての人に対して開かれたのです。

わたしたちは洗礼を受けることによって神の子となる、と言われます。しかし、わたしたちは神からいのちをいただいているのですから、洗礼を受ける前から神の子です。むしろ、洗礼によって、自分が神の子であることを自覚し、イエスとともに神の子として生きるようになる、と言ったほうがいいように思います。父なる神がわたしたちをかわいがっていてくださる、ということを知って、伝えていくのがキリスト者です。  (柳本神父)