1月2日 主の公現 マタイ2章1~12節  救い主の光は最初に彼らに輝いた

主の公現は本来1月6日ですが、キリスト教国ではない日本などでは1月2~8日の間の日曜日に祝われます。それで今年は元日の翌日となります。
公現はギリシア語で「輝き出ること」という意味だそうです。救い主の輝きが異邦人である占星術の学者に達したということで、「世界に公に現れた」ことを記念します。福音はご存知、三博士の礼拝の箇所で、マタイの福音だけに記されています。

「三博士」と書きましたが聖書にはどこにも三人とは書かれていません。贈り物が黄金、乳香、没薬の三つなので一人につき一つずつ持っていたということにして、いつのころからか三人になったようです。まさに「一人ひと役」ですね。わたしの弟は昔、「贈り物は三人とも『持つ役』やで」と言うてましたが。
博士は新共同訳では「占星術の学者」となっています。「占星術」というと、星占いのように人の将来を占うように思いますが、おそらくは星の動きでいろいろな出来事を予測する天文学者だったのでしょう。
ルカの福音書には博士は登場せず、羊飼いが訪ねてきたとあります。両方に共通するのは、みんなが寝ている夜の間も起きていて羊を守り、星の動きを観察していたということです。羊飼いを導いたのは天使、博士を導いたのは星でした。ともに神の導きがあったことを表しています。いずれにしても、イスラエルの多くの人々が待ち望んでいた救い主の誕生に招かれたのは彼らだけだったのです。
羊飼いはイスラエルの民でしたが、羊とともに移動する人々でした。どちらかというと貧しい生活であったと思われます。なかなか律法を守ることもできなかったでしょう。その意味では指導者の人々や豊かな人々からは見捨てられていたと考えられます。そのような貧しい、見捨てられた人々の代表として招かれたのでしょう。
それでは博士はどのような人々を代表していたのでしょうか。まず彼らは救い主を待ち望んでいたイスラエルの民ではなかった、つまり異邦人であったということです。このことは、救い主がイスラエルの民のためだけでなく、すべての民のために生まれたことを表しています。それで、「公現」のシンボルとして登場するのです。
また、彼らは遠い国からやってきた旅人でした。身分のある立場とはいえ、厳しくつらい旅であったことでしょう。それでも彼らは救い主に会うために苦労を乗り越えてやってきたのです。異邦人でありながら、救いを求めていたのではないでしょうか。

救い主の光はまず、見捨てられた貧しい人、遠い国から旅をしてきた異邦人に輝き出ました。私たちの社会にも見捨てられている人、存在を忘れられている人々がいます。遠い国から助けを求めて来ている人がいます。わたしたちはそのような人々とともに救い主の誕生を祝うように招かれているのです。                (柳本神父)