12月25日・主の降誕日中のミサ ヨハネ1章1~18節 命は人間を照らす光であった

今日はクリスマス。教会の典礼では、24日の夜に夜半のミサ、25日は早朝のミサと日中のミサが行われます。その二つのうち、今日は奈良ブロック各教会で行われる日中のミサの福音を味わいましょう。

日中のミサではヨハネの福音書の冒頭の部分が朗読されます。マタイの福音書ではヨセフの立場から、ルカの福音書ではマリアの立場から、イエスの誕生が具体的に描かれますが、ヨハネの福音書では抽象的に表現されます。救い主イエスは「言」「命」「光」という象徴的な言葉で表されています。いずれもイエスの本質を表わしており、福音書の最初に救い主がどのような方であるかを明確に伝えているといえるでしょう。
ヨハネ福音書の特徴のひとつは、イエスと父の関係が表されているということです。ここでも、イエスは父なる神のひとり子であって、世界が造られる前から父とともにあり、人間となって父を示す方であったということです。
そのひとり子は人間を照らす光であった、と記されています。昨晩の第一朗読のイザヤの預言に「闇の中を歩む民は、大いなる光を見 死の陰の地に住む者の上に、光が輝いた」と言う箇所にも、この世を照らす救い主のイメージを見ることができるでしょう。

「光」にはさまざまな役割があります。太陽のように世界を照らす光、クリスマスの星のように人々を導く光、イルミネーションのようにみんなを喜ばせる光、キャンドルライトのように心落ち着かせる光。イエスはそれらの光のいずれの役割も持っておられます。
しかし、ここでは「人間を照らす光」とされています。なぜ「世界を照らす光」ではないのでしょうか。ひとつには、イエスが人間としてお生まれになり、人々に教えを伝えられたことがあると思います。しかし、暗闇の中で人間を照らすということは、「ここに人がいるよ」ということを意味しているのではないでしょうか。
舞台で主人公や台詞を話す人はスポットライトで照らされます。「この場面の重要人物はこの人です、注目してください!」というしるしでもあります。イエスが宣教の始めに照らした人々は貧しい人、病人、障害者、罪人たちでした。彼らは当時、「神にふさわしくない人」として存在が認められていませんでした。いわば、「暗闇の人」だったといえるでしょう。そこにイエスはスポットライトを当てたのです。「ここに人間がいるよ!神の国の重要人物はこの人々です、注目してください!」これがイエスの教えでした。

先の見えないコロナ禍の時代にあって、わたしたちは暗闇の中を歩んでいるようです。しかし、イエスはわたしたちを照らし、導いてくださいます。元の日常に戻ることだけが希望ではありません。現代社会の暗闇に追いやられている人々が照らされる社会に変えていくことが、キリストに従うわたしたちの使命です。           (柳本神父)