12月27日・聖家族 ルカ2章22~40節  わたしたちみんな聖家族

クリスマスの次の日曜日は聖家族の主日です。年によって福音の箇所が違いますが、今年はルカの福音からイエスの神殿奉献の出来事が朗読されます。
律法では初子は神のものとされるので、神にささげるために神殿に行かなければなりません。それで両親はイエスを連れていきます。本来は神にささげられるので、そのまま神殿で神に仕えなければならないのですが、そういうわけにはいかないのでレビ人に贖い金を支払って、奉仕を代行してもらいます。それで両親は連れて帰ることができるわけです。
イエスの場合は彼自身が神の子ですから、神殿への奉献は特別な意味があります。それを表しているのがシメオンとアンナの賛美です。
彼らは幼子が救い主であることを確信し、神を讃えます。そしてシメオンは母親のマリアに、イエスが反対を受けて排斥されること予告します。さらにマリアも心を刺し貫かれる苦しみを受けることを告げられます。イエスがどのような最期を遂げられるか、という預言だといえます。もちろんシメオンはそのあとに与えられる神の栄光も信じていたことでしょう。だから救い主と出会えたことを大いに喜び、神を賛美したのです。

ところで、「聖家族」というと「聖」という字が冠せられるためか、わたしたちの家族とはかけ離れた、雲の上の存在のように思ってしまいます。もちろんイエスは神の子ですし、マリアもヨセフも信仰篤く、立派な方であったことには違いありませんが、日常生活はわたしたちと変わらなかったのだと思います。今日の箇所の続きには、イエスが十二歳のときに神殿に行く話がありますが、そこで母マリアはイエスを叱り、イエスは反論しています。おそらくイエスはいたずらもしたでしょうし、両親も子育てに悩むこともあったでしょう。わたしたちと同じ人間的な生活をされたことと思います。
「聖」というのは世間離れしていることではなくて、俗世間の中にあっても神とつながっていることです。聖家族には神の子がおられるので当然ですが、わたしたちひとりひとりも神からいのちを与えられた神さまのこどもなのです。

以前、ある方が「うちは聖家族じゃないから…」と言われて驚いたことがあります。その方はご主人が信者ではありませんでした。全員が信者の家族を「聖家族」と言うらしいのです。でも考えてみてください。家族の中に信者がいれば、その家族は教会とつながっています。教会に連れて行かなくてもイエスを連れてくることができるのです。だから、立派な聖家族です。さらに言うならば、信者のいない家族も、家庭がない人も、みんな神からいのちをいただいているのですから、やはり聖家族なのです。
わたしは幼稚園で出会う家族にも聖家族の姿を見ています。イエスさまの小さいころはこんなだったかな、泣いて親を呼んでいたかもしれないな…と。わたしたちはみんな、聖家族のメンバーです。わたしたちのうちにイエスがおられるのですから。  (柳本神父)