12月5日 待降節第2主日 ルカ3章1~6節  荒れ野に叫ぶ者の声

今日の待降節第二主日では、洗礼者ヨハネが登場し、救い主の到来を告げます。いよいよクリスマスが近いという思いが新たになりますね。実際は、ヨハネとイエスは半年くらいしか年が違わないので、ヨハネが荒れ野で洗礼を授けていたときにはイエスももう大人になっていたのですが、イエスが公に神の国の福音を告げる前の出来事なので「救い主が姿を現わすのを待つ」という意味ではふさわしい福音であると言えます。

今日の福音朗読箇所の後半にはイザヤ書が引用されています。この箇所は本来、バビロンに連れ去られていたユダヤ人たちに解放を告げる預言でした。「主の道を整える」とは、バビロンからエルサレムへの帰還の道を通すという意味でした。ルカの福音ではこれを救いの主が来られる道を用意する意味としてとらえ、「呼びかける声」を洗礼者ヨハネの声として引用したのです。
谷が埋められ、山と丘が低くされるというと、大規模な国土開発と環境破壊を連想してしまいますが、神への道がさえぎられることなくつながるという意味です。つまり、神と民を隔てているものが取り払われ、神とストレートにつながることができるということを表しています。「隔てているもの」は人間の罪ということができます。そう、まさに救い主は人間と神を隔てていた罪を取り除き、救いを与えてくださる方なのです!

ヨハネはヨルダン川で悔い改めの洗礼を授けていました。エルサレムやベツレヘムなど、当時のイスラエルの町の多くは山の上にあり、ヨルダン川の流れる谷は人の住まない「荒れ野」でした。ヨハネがそのような荒れ野で生活をしていたのは、ヨルダン川で洗礼を授けるためもあったでしょうが、神殿のある聖地エルサレムは権力と富にまみれて腐敗したところと考えてのことだったのではないでしょうか。
荒れ野は不毛の地です。見捨てられた土地と言ってもいいでしょう。救い主の到来がそのようなところから告げ知らせられたのは大いに意味のあることです。それは、来るべき救い主がどのような方であるかを表しているといえます。
イエスは貧しい人や病気の人、体の不自由な人、罪人など、見捨てられていた人々に福音を告げ知らせました。まさに「荒れ野のように見捨てられ、隔てられていた人々」から神の国の福音が始まったのです。

「荒れ野に叫ぶ者の声」は洗礼者ヨハネだけではありません。多くの人々が荒れ野で叫んでいます。紛争の中で命の危険の中にある人々、命からがら逃げだして救いを求めている難民たち、コロナ禍にあって日々の生活に困っている人々。わたしたちもコロナの不安の中で叫びたくなるときもあるでしょう。救い主は多くの叫びに応えてこの世に来てくださいました。待降節は叫びをあげる人々とともに救い主を待つときです。(柳本神父)