2月13日 年間第6主日 ルカ6章17節、20~26節 イエスとともにある者は幸い

イエスは漁をしていたシモン・ペトロたちを弟子にしたあと、出会った人々をいやし、12人の弟子を選ばれます。そして弟子たちに向かって説教をします。マタイにも同じような内容が記されていて「山上の説教」あるいは「山上の垂訓」と呼ばれますが、ルカでは山を下りて説教したことになっています。それで「平地の説教」とも言われるそうです。
マタイの福音では「八つの幸い」「真福八端」と呼ばれていますが、ルカのほうは「四つの幸い」となっており、それに続いて「四つの不幸」が述べられています。いずれにしてもこれらの福音の内容は共通しており、イエスの言葉が伝えられるうちに二通りに分かれたと考えられます。
今日の説教は弟子たちに向かって言われた言葉とされていますが、17節にあるように大勢の民衆が集まっていたので、彼ら全員に向けての言葉であったといえるでしょう。

ここで列挙されている「幸いな人々」は一般的には「不幸な人々」です。でもそのあとには「神の国が与えられる」「満たされる」「笑う」など、良い結末が続きます。さらに、「神の国」と記されていることから、「この世で苦しくてもあの世で幸せになれるから、今は我慢しなさい」というメッセージと考えがちです。しかし、あの世で幸せになるよりも、いま苦しみから解放されたいと願うのが普通ではないでしょうか。
宗教はあの世のことを教えるものだ、というイメージがありますが、イエスの教えの中心はこの世における生き方です。あの世の話も出てきますが、この世のことのたとえであることが多いのです。イエスが伝えた「神の国の福音」は、この世ですべての人が幸せになるための「よい知らせ」であったということです。
イエスが「貧しい人は幸い」と言われたのは、目の前にいる貧しい人々に向かって、「いま、あなたがたとともにわたしがいるから幸いだ」ということを告げられたのです。イエスは神の子であり、神の国の主であるからです。

わたしたちが神の国を受け入れるのはむつかしいことかもしれません。現実の世の中ではお金持ちになりたいという思いがあふれています。かくいう私も、買い物でポイントをためては交換し、近鉄の一日乗り放題切符を使って「うれしい、トクした!」と喜んでいます。まんまと資本主義の罠にはめられていますね。
コロナはわたしたちの生活を一変させてしまいました。感染と死への不安は貧富の差も地位の差も関係なく平等に襲いかかりました。それで、ほんとうに大切なものは何かということに気づかされました。けれども、ワクチンや治療薬の開発が進むことによって、再び格差が戻ってきたのです。いまこそコロナの教訓を生かし、イエスとともに格差のない社会を築くことが望まれているのではないでしょうか。         (柳本神父)