2月7日・年間第5主日 マルコ1章29~39節  イエスのいやしのメッセージ

今日の箇所も先週の続きです。先週の福音にあるマルコ1章の21節から3章のはじめまではいやしの奇跡がいくつも出てきます。マルコの福音の著者(あるいは編者)にとって、イエスの宣教の中で、いやしのわざが重要であったことが強調されているようです。
今日の福音では、最初にシモン・ペトロのしゅうとめをいやされます。しゅうとめは妻または夫の母ですから、ペトロは結婚していたということでしょうか。熱を出して寝ていた、ということですがどの程度の病気だったかはわかりません。今は感染が流行っているときなので熱を出すだけでも心配ですが、医療の充実していなかったイエスの時代はもっと心配だったことでしょう。

ここで注目したいのは、いやされた人が「一同をもてなした」と書かれていることです。マルタのように、当時、客をもてなすのは女性の役割だったのですが、「もてなす」という言葉には「仕える、奉仕する」という意味があります。マルコの福音書でイエスは弟子たちに「仕える者になりなさい」と言われます。ですから、ここでの「もてなし」は、単なる給仕の役割にとどまらず、イエスの弟子として神の国のために奉仕する、というイメージが込められていると思われます。

わたしたちは、病気やけがを恐れています。もちろん、痛みや苦しみを負いたくないと思うのは当然のことです。しかし、もう一つ、迷惑をかけるのを恐れる、という思いも強いのではないでしょうか。とくに、新型コロナウイルス感染症が広がっている今、「社会や医療機関、家族やまわりの人に迷惑をかけたくない」という思いが大きいように思います。
そのために健康に気をつけるのは悪いことではありませんが、その考えが強くなりすぎると、病気の人や体の不自由な人を責めることにつながってしまいます。はたしてそのような人々は社会に負担をかける存在なのでしょうか。
イエスは病気の人を回復させることにより、元に戻すばかりか新しい使命を与えられています。これは、病気の人や体の不自由な人は、社会のお荷物なのではなく大切な存在であり、元気に働いている人以上に重要な役割を与えられているというメッセージです。

教会が行う病者の塗油の秘跡も、回復を願うだけでなく、病者としての役割に派遣される、という意味があります。病床で祈る、イエスとともに苦しみをささげる、病院や施設で出会う人々と神さまからいただいた愛を分かち合うなど、病気の人にしかできない奉仕があります。教会は病気になることをマイナスのイメージとしてとらえていません。
イエスはいやしの奇跡を通して、すべての人が神の子であることを示されました。わたしたちも元気なときは苦しみを受けている人の心に寄り添い、病気のときは病者としての奉仕を果たしていけるように、イエスの思いを受け継いでいきましょう。  (柳本神父)