3月13日 四旬節第2主日 ルカ9章28b~36節 明るい四旬節

四旬節第二主日の福音は毎年、「主の変容」の場面が朗読されます。変容の出来事はマタイ、マルコ、ルカの共観福音書のいずれにも記されており、それぞれA年、B年、C年の四旬節第二主日に朗読されることになっています。今年はC年なのでルカの福音です。
毎年このイエスの栄光を表す場面が四旬節中に朗読されることに違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。しかし、マタイ・マルコ・ルカのどの福音でも、主の変容の出来事はイエスの最初の受難予告のすぐあとに記されています。さらに、今日の福音では、モーセとエリヤはイエスの迎えられる最期について話し合っていたと書かれています。これらのことから、イエスの受難は復活につながっていることが強調されているのです。

わたしが司祭になって間もないころ、小教区の青年会で四旬節のテーマについて話し合いました。わたしは「明るい四旬節」というのを提案しましたが、冗談を言っていると思われたのか却下。わたしも半分冗談でしたが、半分はまじめでした。というのも、四旬節といえば「暗い」というイメージが強かったので、ほんとうにそうだろうか?四旬節は暗い気持ちで過ごさなければいけないのか?という疑問があったからです。
「四旬節中の歌舞音曲は禁止」と言われていたときもありました。楽しいことは我慢しましょうということです。わたしの母は四旬節に宝塚歌劇を観に行くとき、「学芸会を観に行くんや」と言って出かけたそうです。というのは、タカラジェンヌ(宝塚の劇団員)は「生徒」と呼ばれているからです。しかし、宝塚歌劇が歌舞音曲でないとしたら、何が歌舞音曲なの?と思いますね(笑)。
もちろん、イエスの受難、そして世界中の苦しみを受けている人のことを思い起こすとき、節制を心掛けるのは当然でしょう。しかし、だからといって四旬節を暗い面持ちで過ごさなければいけないのでしょうか。
四旬節の間は暗闇で、復活祭になると急に光り輝くわけではありません。現実の世界でも光と闇、喜びと苦しみの両方があってどちらか一方ではありません。闇の中に光が輝き、光の届かないところに暗闇があります。四旬節にも同じことがいえると思います。

四旬節とコロナ下の社会はイメージとして重なるかもしれません。わたしたちはコロナが終息して安心して暮らせるときを待ち望んでいます。テレビのインタビューでも「コロナが終わったら思い切り楽しむぞー!」というようなことを語っている人がいます。まるで「四旬節が終わったら思い切り楽しむぞー!」と言っているわたしたちのようではありませんか。けれども、コロナ下にあっても喜びやうれしい出来事もいっぱいありますし、コロナが終息したらこの世の苦しみがなくなるということではありません。
 主の復活の光は四旬節の今も輝いています。コロナの終息とは異なり、復活はすべての人に幸せをもたらします。変容の出来事はそのことを教えてくれるのです。(柳本神父)