4月9日・聖木曜日 ヨハネ13章1~15節 愛による聖体の秘跡

今日は聖木曜日、主の晩餐を記念します。ところがヨハネの福音においては、弟子たちと食事をするときのパンとぶどう酒を分け与える言葉がなく、代わりに弟子の足を洗う出来事が記されています。わたしたちの信仰にとって重要な部分であるミサの始まりともいえる晩餐の出来事が書かれていないのはどういうわけでしょうか。
これは4つの福音でもヨハネだけです。ということは、ヨハネの福音では、この弟子の足を洗うことが聖体の秘跡を象徴しているものであるということができます。なお、ヨハネの福音では6章でパンを増やす奇跡のあと、「わたしが命のパンである」「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたその人の内にいる」と言われているのでこれがヨハネ福音書における聖体を表す言葉であると言えます。

イエスがペトロの足を洗おうとしたとき、ペトロが断ろうとします。そのときにイエスは「わたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と言われます。この「かかわり」という言葉は、ヨハネの福音と聖体制定の言葉がある他の三つの福音を結びつけるキーワードであるといえます。
イエスが、パンとぶどう酒を「これはわたしの体である」「わたしの血である」と言って弟子に与えられたのですが、これがイエスと弟子たちを結びつける「かかわり」のわざ、つまり聖体の秘跡でした。聖体の秘跡はイエスと弟子たち、そしてわたしたちを結ぶものです。「かかわり」の最たるものであるといえるでしょう。イエスは、外からではなく内からご自分とわたしたちを結び、かかわってくださったのです。
この足を洗うという行為について、イエスは、「わたしがあなたがたの足を洗ったのだから、互いに足を洗い合わなければならない」と言われます。「互いに洗い合う」という言葉は「互いに愛し合う」という教えを思い起こさせます。足を洗うという行為は奴隷の仕事でした。主であるイエスが弟子に仕える行為をされたのですから、最大の謙遜です。イエスは弟子たちの足が汚れたままで食事をしているのを見て気の毒に思ったのかもしれません。食事の前にイエスは「弟子たちのことをこの上なく愛し抜かれた」と書かれているのでその愛の表れであったともいえます。イエスが足を洗ったのは愛の実行でした。

今こそイエスとの一致が必要なのに、わたしたちは聖体の秘跡を分かち合うことができません。しかし、イエスが最後の晩餐のときに弟子の足を洗ったように、わたしたちも愛の行いを通してイエスと一致することができます。人との出会いも制限されている今、新型コロナウイルスによって亡くなられた方々、苦しんでおられる方々、不安のうちに過ごす方々のために祈りをもって支えるのも愛の行いです。神に信頼し、希望を持ち続けることも愛のしるしです。そのような愛によって聖体の恵みをいただくこともできるのではないでしょうか。                           (柳本神父)