3月20日 四旬節第3主日 ルカ13章1~9節 悔い改めはだれのため

今日の福音では二つの教えが記されています。ローマ軍によってガリラヤ人が殺された出来事にまつわるイエスの教えと、いちじくの木のたとえ話です。
最初の「ピラトがガリラヤ人の血をいけにえに混ぜた」という話は何のことかわかりにくいですが、神殿にいけにえをささげに来たガリラヤ人をローマ兵が殺害するという事件だったと思われます。イエスに伝えた人々は、彼らがどんな罪のために被害にあったのか、と聞きたかったようです。というのは、不幸はその人の罪の報いである、という考え方があったからです。それに対して、イエスはシロアムの塔が倒れて死者が出た事故も含めて、彼らだけが罪深いから罰を受けたのではなく、「悔い改めなければ、皆同じように滅びる」と言われます。しかし、イエスの意図は滅びを恐れさせることではなくて、すぐにでも悔い改めて神に従うことを願っておられたのでしょう。

さらに、いちじくのたとえ話が続きます。実のならないことに腹を立てた主人は切り倒せ、と言い、育てている園丁は、肥やしをやって世話をするから待ってくれ、と言う話です。ところで、いちじくといえばわたしの好物です(たいがいの果物は好きですが)。以前、京都のホームセンターでいちじくの苗木を買って当時住んでいた松阪教会に持ち帰りました。信者さんが教会の庭に植えてくださったのですが、木は大きくなるものの、なかなか実が実りません。あきらめかけたころ少しずつ実り始めました。その後は毎年実がなりましたが、収穫前に鳥が来て食べてしまうので鳥と競争でした。わたしがあきらめているときに、その方が肥やしをやって世話してくださっていたのでした。
イエスのたとえで主人が出てくるときは父なる神を表します。しかし、この気が短い主人の姿は、イエスが伝える限りなくやさしい父のイメージと異なります。主人を父なる神、園丁をイエスと考えることもできますが、一つであるはずの父と子の考え方が違うのはおかしいですね。おそらく、主人と園丁のやり取りを通して、神は悔い改める(実を実らす)ことを望んで待っておられるということが強調されているのだと思います。ということは、このたとえ話も悔い改めて神に従うことを教えるためのものだということです。

わたしたちにとって、悔い改めるのは何のためでしょうか。滅びないためでしょうか。自分が救われるためでしょうか。いいえ、悔い改めはその人だけのためのものではありません。イエスがいちじくの実をたとえに用いられたのは、悔い改めが人々に喜びを与えるものであることを示しています。神の思いに応える人が増えることは、この世が神の国に近づくことです。イエスが悔い改めを急がせるのはそのためです。神の愛がこの世に広がるのは早い方がいいに決まっているではありませんか。
今年はウクライナ危機とコロナのうちに迎える四旬節となりましたが、神は今も世界を完成へと導いてくださっています。悔い改めは神のわざへの協力なのです。(柳本神父)