3月28日 受難の主日 マルコ15章1~35節  本当に、この人は神の子だった

今日から聖週間が始まります。イエスのエルサレム入城を記念する日でもあるため、「枝の主日」のほうが、なじみがあるかもしれません。今年の公開ミサではコロナ対応として枝を持っての入堂は行われず、エルサレム入城の福音も読まれません。
ミサ中の福音朗読はマタイ、マルコ、ルカの福音書から受難の場面が朗読されます。今年はマルコの年です。そして聖金曜日は毎年ヨハネの福音の受難の朗読です。聖金曜日と重なりますが、今日はマルコの受難の朗読を中心に考えてみましょう。

今日の朗読の長い形では、14章も読まれますが、かなり時間がかかるので通常は省略されます。そこには最後の晩餐、ゲッセマネの祈り、ユダの裏切りと逮捕、最高法院での裁判とペトロの否定など、イエスの受難に至る出来事が記されています。
14章~15章に見られるのはイエスをめぐる人間ドラマです。イエスは自分の受ける運命を受け止め、毅然とした態度を貫かれます。それに対して、イエスの周りの人々は、その状況によって態度を変えていきます。とくに、イエスに従うはずの弟子たちは、イエスの逮捕に怯えて逃げてしまいます。これは、彼らだけのことでなく、わたしたちも同じではないでしょうか。
わたしたちも、都合が悪くなれば隠れてしまい、過ちを指摘されたら言い訳をし、多数の意見に流されてしまいます。大きな災難が起こると人間の本性が出てしまいます。新型コロナの感染が収まらない不安な状況の中で、お互い助け合わなければならないのに、感染した人や考え方の違う人を非難することによって自分を守ろうとしてしまいます。
エルサレム入城の際に、イエスを歓喜のうちに迎えた人々は、イエスが王になろうとしないことがわかると「十字架につけろ!」と叫びます。イエスを釈放しようとしたピラトは群集を恐れて十字架につけるために引き渡してしまいます。自分もつかまって殺されるのではないかと思ってイエスを否定するペトロ。このような人々の姿はわたしたちの姿でもあるのです。
 
 マタイ、マルコ、ルカの三つの共観福音書では、イエスの受難の出来事は、ローマの百人隊長の言葉「本当に、この人は神の子であった」(ルカは「正しい人であった」)で締めくくられます。百人隊長はイエスを断罪する側の人間であり、真実の神を知らない異邦人です。その隊長が信仰宣言ともいえる言葉を発したことは、重苦しい受難朗読に一筋の光を輝かせています。このことは、イエスの十字架の死が異邦人への宣教へとつながることを表しているのですが、同時にイエスを十字架につけた者が回心する姿でもあります。
 わたしたちも自分の弱さゆえにイエスに苦しみを与える立場に立ってしまいます。四旬節と聖週間はそのような弱さと向き合うときでもあります。そして、百人隊長とともに「本当に、この人は神の子だった」という信仰を新たにするときでもあるのです。(柳本神父)