3月7日・四旬節第3主日 ヨハネ2章13~25節  イエスはともにいてくださる神殿

今日の福音はイエスが神殿から商人を追い出される出来事が読まれます。イエスが激しく怒りをもってふるまわれるのでちょっと驚きます。神殿で商売をするのがいけないなら、教会の売店もあかんのやろか、と思ってしまいますね。

神殿は献金をして祈る場所であると同時に、律法の規定に従っていけにえを捧げるところでした。しかし、イエスの時代に家畜を飼っている人も少なくなり、律法の規定通りにいけにえを捧げるためには動物を買う必要がありました。また、当時流通していたローマ帝国のお金は皇帝の肖像があり、神殿にはふさわしくないと考えられていたため、献金するためには両替する必要がありました。ですから、神殿で動物を売る、両替をするという商売は神殿礼拝のために必要なことだったのです。
また、神殿を管理する立場の祭司やレビ人は、商売人から場所代のようなものを納めさせていたと思われます。イエスに問い詰める「ユダヤ人」とはそのような人々だったようです。彼らにとってイエスのふるまいは自分たちに対する非難だと感じたことでしょう。
律法はユダヤ人にとって大切な掟でしたが、それを守ることが目的になっていました。ユダヤ教の指導者たちにとっても、自分たちの権威を守るためのアイテムでした。それで、律法の細かい規定を守ることよりも、その精神である神と人への愛を強調するイエスの教えは彼らにとって脅威に感じられたわけです。
そのように考えると、イエスが激しく憤られたのは、商売そのものよりもその背後にある律法や神殿に絡む利権や権力に対するものだったことがわかります。

今日の箇所で、「(三日で建て直す)神殿とはご自分の体のことだったのである」と書かれています。「三日で建て直す」とは「過越の三日間」すなわち死と復活のことを表しています。復活されたイエスこそが新しい神殿だということです。
エルサレムの神殿はわざわざ出かけていけにえを捧げなければなりませんが、新しい神殿であるイエスはご自分のほうからわたしたちのところに来てくださいます。しかも、ご自身が最終的ないけにえとなってくださったので、もう人間の側からいけにえを捧げる必要がなくなりました。イエスが神殿で商売人を追い出されたのは、神殿でいけにえを捧げる時代の終わりを告げる意味があったのです。

先週の福音もそうですが、四旬節の聖書朗読の中に復活を表す内容がちりばめられています。四旬節はイエスの受難とこの世の苦しみを思い起こすときなので暗い気持ちになりがちですが、そのような現実に目を留めながら、復活の光に向かって歩むときでもあります。そして、新しい神殿であるイエスがともにいて励ましてくださいます。その意味で、四旬節の精神は復活祭を迎えても神の国が来るまで続くのです。      (柳本神父)