4月18日 復活節第三主日 ルカ24章35~48節  シャローム、まさしくわたしだ

今日はルカの福音から、復活されたイエスが弟子たちと出会う出来事です。ルカの福音では、最初に復活したイエスと出会うのは、エマオへ向かう二人の弟子でした(シモン・ペトロにも現れたと話し合っていますが、その場面は書かれていません)。「エルサレムに戻った二人の弟子」とは、彼らのことです。彼らはエルサレムで集まっていた弟子たちのもとを離れて故郷に帰る途中だったのでしょう。それがイエスと出会ったので、そのことを伝えるために喜び勇んでエルサレムに戻ったのでした。

その報告の途中にイエスは弟子たちに現れたのです。それが今日の福音です。先週のヨハネの福音における、弟子たちが鍵をかけて家の中に閉じこもっているところにイエスが現れたという出来事を表しているのかもしれません。
イエスはまず、「あなたがたに平和があるように」とあいさつされます。ヘブライ語の「シャローム」という言葉です。イエスは「平和」を「世が与えるように与えるのではない」(ヨハネ14章27節)と言われます。弟子たちはイエスを失ったことに戸惑い、迫害に怯えていました。イエスが与えられる平和とは、主がともにいてくださるという信頼に基づくものです。自分たちだけが安心して暮らせたらいいという見せかけの平和ではなく、困難や苦難の中にあっても、イエスがともにいて支えてくださるという平和です。同じように、現在のコロナ下の困難な状況においても、イエスはわたしたちに「シャローム」と呼びかけてくださっています。
イエスは弟子たちがまだ信じられずにいるのを見て、ご自分の手足を示されます。魚を食べられたのは肉体をもって復活されたことを示されたのでしょう。それでイエスは、「まさしくわたしだ」と明言されます。実に力強い言葉です。わたしたちが戸惑い、不安のうちにいるときに、イエスはわたしたちのところに来てくださり、「シャローム、まさしくわたしだ」と声をかけてくださいます。そのイエスに信頼することこそ、復活の信仰だといえるでしょう。

最後にイエスは言われます。「罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる
国の人々に宣べ伝えられる」。「赦し」は単に個人の罪を赦されるという意味だけでなく、「解放される」「自由になる」という意味があります。わたしたちの社会が罪から解放され、神が与えられる自由に生きることができるようになるために、イエスは弟子たちを派遣されます。「宣べ伝えなさい」ではなく、「宣べ伝えられる」と言われるのは、福音を告げられるのはイエスご自身であるからでしょう。
わたしたちも二人の弟子のように、イエスと出会った喜びを伝える使命を与えられています。コロナ下の今、復活の主がわたしたちのところに来てくださり、支えてくださっている喜びを分かち合うために何ができるでしょうか。           (柳本神父)