4月3日 四旬節第5主日 ヨハネ8章1~11節 悔い改めは隔たりを解消する

四旬節にあたり、先々週から「悔い改め」が福音のテーマとなっています。今日も罪を犯した女性の悔い改めについて記されていますが、悔い改めたのは彼女だけでしょうか。先週の福音と対比しながら味わってみましょう。

先週は3人の登場人物の立場を考えました。それぞれの立場の違いは今週の福音にも当てはまります。罪人の女性は放蕩息子である弟です。律法学者やファリサイ派の人々は放蕩息子の兄の立場です。では父親は?今日の福音ではイエスであるといえるでしょう。
ここで思い出すのは放蕩息子の兄の態度です。兄は怒って家に入ろうとしませんでした。これは弟に対する怒りであるとともに、弟を赦した父への抗議のしるしでもありました。今日の福音の律法学者やファリサイ派の人々も、女性とともにイエスを責める立場です。
福音に何回か出てくるイエスを試そうとするエピソード、たとえば「皇帝に税金を納めるのは許されているか」「安息日に病人をいやすのは許されるか」などの質問と共通するものであるといえます。いずれもイエスを陥れるための質問です。今日の福音でも、イエスが「女性を赦しなさい」と言えば律法に反対するのかと責めることができますし、「律法に従って石を投げなさい」と言えば、罪の赦しを告げてきたイエスの教えに反することになります。
それに対するイエスの答えは「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、まずこの女に石を投げなさい」というものでした。これによって、罪を犯した女性と、断罪する立場にあった人々を隔てていた壁は取り去られ、同じ罪びとの立場に立たされることになったのです。これはイエスの神の国の教えの中で常に語られてきたことでした。それで彼らは一人また一人と立ち去ったのでした。
キリスト教の伝統的な小話では、一個だけ石が飛んできたそうです。イエスが飛んできたほうをみると母が立っていた、ということです。なぜなら彼女は無原罪だったから、というジョークです。たしかにマリアには石を投げる資格があったかもしれませんが、「石を投げる」ということはその女性を裁き、排除しようとする、いわば罪にあたることですから、そんなことはありえないですね。

わたしは去っていった人々も立派だと思います。律法学者やファリサイ派の人々は律法を守ることを誇りにしていたので、自分たちと罪人は違う、と考えていたはずです。その彼らがイエスの言葉によって自分も罪びとであることを自覚し、悔い改めたのです。
放蕩息子の兄も父親の赦しに反発して家に入ろうとしませんでした。弟と父VS.兄という対立関係でした。罪びとの女性とイエスVS.律法学者・ファリサイ人という対立関係は、イエスの言葉によって解消されたのです。つまり、「悔い改め」は神と人の隔たりを解消するだけでなく、人と人の隔たりも解消する行為だといえるでしょう。  (柳本神父)