4月3日 復活徹夜祭 マルコ16章1~7節  イエスはわたしたちの日常で待っておられる

みなさん、主の復活おめでとうございます。
昨年は新型コロナ感染拡大の中で、四旬節第一主日のあと京都教区の公開ミサは中止されました。聖週間、復活祭もミサに参加できず、残念な思いをなさったことと思います。今年は幸い、公開ミサを行うことができますが、新型コロナがまだ広がっている状況なので制限を設けています。一日も早い終息を願いつつ、復活の喜びを分かち合いましょう。

聖金曜日の説教にも書きましたが、イエスが十字架につけられた理由の一つは大祭司カイアファが言ったように、「国民全体が滅びないで済む」、つまり多数の人々の立場を守るためであった、ということです。しかし、イエスが復活なさったということは、「多数のために少数の人が犠牲になるのはよいことではない」という父なる神の、人間社会に対する答えだったのです。

今日の福音で、三人の女性がイエスの葬られた墓に向かいます。福音で女性の役割はあまり目立たないように思いますが、今日の福音では主人公は女性です。彼女たちは、イエスの死に立ち会った人たちで、「イエスに従って世話をしていた」と書かれています。「世話をしていた」というと小間使いのようなイメージがありますが、女性の弟子であったとも考えられるようです。
彼女たちは天使と思われる若者から、イエスの復活を告げられます。そして、それを弟子たちに告げるよう呼びかけられます。まず女性たちに主の復活を告げる、つまり宣教の使命が与えられているのです。やはり、弟子の立場であったのかもしれません。
そこで、もう一度マルコの福音で女性が出てくる箇所を読み返してみましょう。イエスは宣教の途中で会堂長ヤイロの娘と出血症の女性をいやされます。(5章21~42節)異邦人であるシリア・フェニキアの女性の信仰によって娘がいやされます。(7章24~30節)そしてベタニアでは女性がイエスに注ぎます。(14章3~9節)これらの箇所から、福音に登場する女性たちは、それぞれのイエスとの出会いの中で信仰を表しています。
女性であれ、男性であれ、わたしたちはイエスとの出会いに招かれています。そこでわたしなりの信仰を表すことによって、今のわたしがあるのです。

墓で出会った若者は「あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。そこでお目にかかれる」と告げます。「福音のヒント」によると、ガリラヤは弟子たちや女性たちにとっての故郷であり、生活の場でした。そこで復活されたイエスに出会う、ということは、わたしたちも日常生活の場で復活の主に出会うことができるということです。
イエスの復活は2000年前の出来事ではなく、現代の今も続いています。そして、イエスはわたしたちの生活の中で待っていてくださいます。           (柳本神父)