5月24日・主の昇天 マタイ28章16~20節  いつもあなたがたとともにいる

今日は主の昇天の主日です。マタイの福音の最後の部分が読まれます。第一朗読の使徒言行録ではイエスが天に上げられる場面が出てきますが、福音ではその前で終わっています。その代わりに「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」というイエスの言葉が記されています。

マタイの福音は1章でイエスの系図のあと、ヨセフに救い主の誕生が告げられますが、イエスのことをイザヤの預言から「インマヌエル」として表されています。インマヌエルは「神は我々とともにおられる」という意味ですから、マタイの福音は「ともにいる神」に始まり、「あなたがたとともにいる」で終わるということです。つまり、マタイの福音のテーマであるといえるでしょう。そして、主の昇天、それに続く聖霊降臨の出来事は、「神がともにおられる」出来事にほかならないのです。ですから、今日の福音では、昇天の出来事の本質が主の言葉によって表されているということができます。
そうはいっても、弟子たちにとってイエスが天に上げられるということは、愛する主との別れでした。もちろんイエスが栄光のうちに昇られたというのはうれしいことですが、せっかく復活された主と再会したばかりなのに、別れることはさみしかったことでしょう。けれども、それはイエスとの新しい出会いの始まりだったのです。
パリにエッフェル塔が建つとき、小説家のモーパッサンは景観にそぐわないということで建設に反対したのですが、建ったあとはよくエッフェル塔の食堂に通ったそうです。その理由は、「ここに来ればエッフェル塔が見えないから」ということでした。逆に、大好きな建物であっても、その中にいると見ることができません。同じように、わたしたちもイエスのうちにいるとイエスが見えないのです。弟子たちにイエスの姿が見えなくなったのは、イエスと一致することを表しているのではないでしょうか。

奈良県では緊急事態宣言が解除されましたが、新型コロナウイルスの感染がこのまま収束するのか、再流行するのか、そしてミサはどうなるのかとご心配なことと思います。
教会は万全の対策を講じながら、ミサを含め通常の活動再開に向けて準備していきますが、時間がかかるかもしれません。けれども、復活、昇天、聖霊降臨によって、主はいつもともにいてくださるということを忘れてはなりません。先週のヨハネの福音では、「あなたがたをみなしごにはしておかない」ということばによって神がともにいてくださることを保障されました。マタイの福音でイエスが言われていることばも、ヨハネの福音で言われていることばも、なんと力強いことでしょう。苦しいとき、悲しいとき、不安なときにはこれらのことばを思い起こしましょう。
復活のあと、イエスはトマスに「見ないのに信じる人は幸いである」と言われました。姿が見えないのもイエスがわたしとともにいてくださるしるしです。  

 (柳本神父)
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