6月14日・キリストの聖体 ヨハネ6章51~58節  主はすべてのみなさんとともに

今日のキリストの聖体の主日の福音は、イエスがユダヤ人たちに「私は生きたパンである」ということを伝えられる箇所です。これは、イエスがパンを増やす奇跡を行ったあと、集まって来た群集に言われた言葉を聞きとがめたユダヤ人たち、おそらくはファリサイ派と思われる人々の非難に答えられる形でおっしゃった言葉です。同時に、これはわたしたちにも語られているといえるでしょう。

5月17日に読まれたヨハネの福音では、最後の晩餐のときに聖霊を遣わす約束をなさいました。そのときに「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」と言われました。このように、父とイエスの関係をイエスとわたしたちの関係になぞらえることは、ヨハネの福音の中にたびたび出てきます。
今日の福音でも、「わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者もわたしによって生きる」と言われます。「内にいる」とは「イエスと生きる」ということです。「わたしを食べる」とは、イエスとひとつになるということでしょうが、イエスの体をいただく聖体の秘跡を表しているのは言うまでもないでしょう。
イエスは「命のパン」です。イエスをいただく者は永遠の命をいただきます。それは死後の救いをいただけるというよりも、永遠に生きておられる神との交わりに招かれるという、先週の三位一体のテーマを表しているといえるでしょう。ですから、聖体の主日が三位一体の主日の次に祝われるのには大きな意味があるのです。

そのように聖体の秘跡はすばらしいものですが、わたしたちは、ともにミサをささげることができないという、つらい日々を過ごしてきました。現在も、まだ完全な形でミサを捧げることができません。しかし、教会に集えない日々は、教会とは何か、秘跡とは何かを考える機会を与えられたのではないでしょうか。
わたしも無観客試合ならぬ無会衆ミサを毎日捧げるという前代未聞の体験をしました。その中でひとつ体験したことがあります。普段、会衆とともにミサを捧げるとき、どうしても目の前におられる方々とミサを捧げているという意識になります。しかし、目の前に誰もいないときは、その向こうにいる奈良ブロックの方々全員と捧げていると思えるようになりました。ですから、誰もいなくても「主の平和!」とみなさんに向かって平和のあいさつをしています。(みなさんも心の中であいさつしてくださいね!)

教会は秘跡であると言われます。集会や儀式が行われなくても、教会自体が「キリストの体を表す秘跡」なのです。以前のような状態に戻るのにはまだまだ時間がかかるかもしれませんが、離れていてもひとりひとりはキリストの体の一部です。    (柳本神父)