7月10日 年間第15主日 ルカ10章25~37節 だれが隣人になったと思うか」

今日の福音はみなさんよくご存じの「よいサマリア人のたとえ」です。これは、イエスが隣人愛を教えるのに使われたたとえです。イエスはこのたとえを通して、隣人愛について何を伝えようとしておられるのでしょうか。
隣人というと、読んで字のごとく、隣にいる人を思い起こします。実際、律法にもある「隣人を自分のように愛しなさい」という掟も「身近な人」という意味で使われています。律法の専門家が「わたしの隣人とは誰ですか」と聞いたのも、隣人の範囲を確認して律法を確実に守るためでした。しかし、イエスは「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」と言われます。では、「隣人になる」とはどういうことなのでしょうか。

あらためてたとえ話を読んでみましょう。登場人物は襲われた人、祭司、レビ人、サマリア人です(宿屋の主人もいますが)。祭司はエルサレム神殿で祭儀を行う人、レビ人は神殿で奉仕する人でいずれもユダヤ人です。襲われて倒れていた人もユダヤ人であったと思われます。同じユダヤ人でありながら彼らは同胞にかかわることなく立ち去りました。立派な身分の人たちでありながら見捨てたのは心が冷たいように思えますが、襲われた人は半殺しの目に遭っていたわけですから、死んでいたように見えたのではないでしょうか。神に仕える祭司は死体に触れて汚れてはいけないと律法にあるので、反対側を通って行ったのだとも考えられます。レビ人も同様だったのでしょう。それに対して、異邦人とみなされていたサマリア人は、死んでいるかもしれないその人を助けることができたのです。
そのサマリア人は「あわれに思い」介抱したのですが、日本語の古語の「あわれ」というのは「ああ、われ」という意味で、自分の心が動かされるさまを表しています。原文も「はらわたがかきむしられるような思い」という意味で、やはり深い共感を表す言葉です。
わたしが滋賀県にいたとき、幼稚園の園児さんに、「きっとこの人は目が合ってしもたんやと思うよ」とお話ししました。あとで先生が「神父様はどんなお話ししてくださったの?」と聞かれたときにある園児さんが「あんな、あんな、目が合うたんやて!」と答えたそうです。そう、このサマリア人は襲われた人と心の目が合ったのです。隣人になるということはそういうことなのではないでしょうか。

マザーテレサが日本に来られたとき、「わたしもあなたのところで働かせてください」と言った若者に「あなたは日本人でしょう。日本で働く場所があるはずです」と言われたそうです。たとえ話のサマリア人は、祭司やレビ人にできなかったことを「わたしはこの人に呼ばれている」と感じてすることができました。「隣人になる」とは、困っている人をどこかに探しに行くことではなく、いま、わたしを必要としている人とわたしにしかできないかかわりを持つことではないでしょうか。イエスが言われた「あなたも行って同じようにしなさい」とはそういうことなのです。             (柳本神父)