7月17日 年間第16主日 ルカ10章38~42節 いちばん必要なことはだれにでもできること

今日の福音は先週に続く箇所です。エルサレムに向かう途中、イエスがマルタとマリアの家を訪ねたときの出来事です。ヨハネの福音によると、この姉妹のお兄さんはラザロで、イエスはこの家族と仲がよかったと書かれています。

みなさんの中には、人のお世話をするのが好きな方もいらっしゃることでしょう。そのような方がこの話を聞くと、イエスに責められているようで残念に思われるかもしれません。そこで、マルタの弁護をさせていただきましょう。
当時のユダヤでは礼拝や教えを学ぶのは男性の役割とされていました。女性は男性の世話をする立場と考えられていたのです。ですから、マルタがかいがいしく働くのは女性として当然の役割をしていたということです。それに対し、マリアのようにラビ(先生)の話を聞いているのは女性としてふさわしくないことでした。マルタがマリアに対していらいらしていたのは当然のことだといえるでしょう。自分だけが忙しくしているのにマリアは話を聞いているだけ。イエスに訴えたくなるのはあたりまえですね。
マルタは自分もマリアのようにイエスの話を聞きたかったのかもしれません。あるいは、自分が頑張っていることを認めてほしかったのかもしれません。それで彼女は自分の気持ちを正直にイエスにぶつけたのです。それに対するイエスの答えは、「必要なことはマリアのしていることだ」という当時の常識をひっくり返すようなものでした。
イエスはマルタの仕事を非難されたのではありません。けれども、やはり男女の区別なく、マルタにも神のみことばを聞いてほしいという思いがあったのではないでしょうか。イエスの言葉には「マリアはそれをしている。だから取り上げるようなことはしないでほしい。そしてあなたにも聞いてほしいのだ。」というような思いが込められていたのだと思います。
イエスの復活を「決して信じない」と言ったトマスにもあてはまることですが、イエスは乱れた心で正直な思いをぶつけてしまったマルタに対しても答えをくださいました。わたしたちも、ときには神に正直な気持ちをぶつけることも必要なのだということでしょう。

わたしはもう一つの考えを述べたいと思います。マルタは人々をもてなすためにかいがいしく働いていました。それはすばらしい奉仕です。けれども、体の不自由な人、寝たきりの人、小さいこどもなど、働くことのできない人もいます。そのような人たちにできること、それはその場にいること、そして聞くことです。
イエスは「ただ一つの必要なこと」とは、「どんな人にもできる、神のみことばを聞くこと」だとおっしゃりたかったのではないでしょうか。このことにも、イエスが伝えた神の国の福音が現れています。神の国の中心は貧しい人、体の不自由な人、何もできない人、価値がないとみなされている人たちなのですから。           (柳本神父)