7月24日 年間第17主日 ルカ11章1~13節 神さま、何とかしてください

今日の福音は章が変わりますが、先週の続きとなる箇所です。イエスは弟子たちの求めに応じて「主の祈り」をあたえられ、さらに祈りについて教えられます。

「主の祈り」はルカのこの箇所と、マタイの6章に記されています。マタイのほうが少し長く、現在の「主の祈り」もマタイをベースにしています。いずれにしても、聖書に記されているイエスが具体的に教えられた唯一の祈りであり、もっとも大切な祈りとして教会に伝えられてきました。入門式で「主の祈りの授与」がありますが、初代教会では志願者になるまでは主の祈りは教えてもらえなかったそうです。
主の祈りの前半はすべての人が神をあがめるよう願い、神の国の到来を求める内容ですが、後半はわたしたちの日常生活における願いです。いちばん大切な祈りにしては、「こんな祈りでええのん?」と思いませんか?「人はパンだけで生きるのではない」と言われているように「糧(パン)よりもみことばをください」、イエスが誘惑に打ち勝たれたように「誘惑に遭っても打ち勝つ信仰をお与えください」と祈るほうがふさわしいように思いませんか?
イエスは人間としてこの世にお生まれになりました。ということは人間の弱さを身に受けておられたということです。ですから、人間の弱さはよくご存知です。食べ物がなければ奪い合いが起こります。誘惑に遭えば負けてしまいます。そのような、弱い人間にふさわしい祈りが「主の祈り」であったということができるでしょう。

今日の福音の後半のテーマは「求めなさい」です。イエスの説教ではときどきおもしろいたとえを使われます。今日のたとえでは、まず人間同士のやりとりを引き合いに出して、「悪い人間でも聞いてくれるのだから、まして神は」と話されます。ちょっと極端な例かもしれませんが、それほどまでに神のいつくしみは大きいということです。
主の祈りは「父よ」で始まります。イエスは父なる神を「アッバ」と呼ばれました。これは幼い子どもが父親を呼ぶ言葉です。子どもは素直に親におねだりします。駄々をこねてほしがることもあります。ですから、「しつように頼む」ということは、子どもが駄々をこねるように、「神さま、お願いします、どうかお願いします」と求め続けることです。
神さまは何でもご存知だから、敢えて願う必要はないという考え方もあります。すべてを神さまに委ねて、心穏やかに過ごすことができれば、どんなにすばらしいことでしょう。しかし、イエスが人間としてこの世に遣わされたように、わたしたちも人間としてこの世の人生を与えられています。そこには、悩み、苦しみ、悲しみ、怒りを生むどうしようもないことが起こります。新型コロナの感染拡大もそうです。そのようなとき、「何とかしてください」「助けてください」と神さまに自分の思いを素直にぶつけることも信仰なのではないでしょうか。                        (柳本神父)