4月15日 聖金曜日 ヨハネ18章1~19・42節 イエスの十字架を仰ぎ見ながら

 

聖金曜日と聖土曜日の日中はミサを行いません。ミサはイエスの復活を記念する秘跡なので、イエスがなくなられた日と墓に葬られている日はミサを行わないことでイエスの死を記念します。その代わりに聖金曜日には主の受難を記念する式が行われます。ですから、「聖金曜日のミサ」ではなく「主の受難の聖式」と呼ばれます。

 

受難の主日と聖金曜日には受難の朗読があります。受難の主日はマタイ、マルコ、ルカが年ごとに読まれますが、聖金曜日は毎年ヨハネです。いずれも最高法院での尋問、ピラトによる裁判、十字架の死と内容は共通していますが、それぞれに特徴があります。ヨハネの福音の特徴は、ピラトとのやり取りが詳しく記されていることです。

ヨハネの福音書は、イエスの説教がかなりの部分を占めています。とくに弟子たちやファリサイ派の人々との対話を通して、父である神とご自分の関係や、この世に来られた意味について語られています。ここでもイエスはピラトとの対話で、ご自分がどういう存在であるかを伝えておられます。そのポイントは二つです。一つは「わたしの国はこの世に属していない」ということ、もう一つは「真理について証しするためにこの世に来た」ということです。この短い答えでイエスはご自分が神の子であること、真理、つまり神の福音を伝え、それを実践するために人間となられたことを伝えられています。ピラトはローマ人です。異邦人であるピラトになぜイエスはこのような重要なことを語られたのでしょうか。イエス教えが異邦人に告げられることの象徴でしょうか。

ピラトはイエスを釈放しようと努めています。「真理とは何か」と問うているのでイエスの教えに興味を持っていたとも考えられます。それで初代教会には、ピラトは後に洗礼を受けてキリスト者となったという伝えもあるようです。一方では彼は残虐な人間だったといわれています。それでイエスを釈放しようとしたのはユダヤ人(祭司や長老たち)を見下していたので面当てしようとしたためだとも考えられます。

いずれにしても、それぞれの立場の人々の、さまざまな思惑の集まった先がイエスの十字架であったということです。

 

大祭司やユダヤ人たちは国を守るためにイエスを殺そうとしました。ピラトはローマの名誉を守るためにイエスを見捨てました。ウクライナ侵攻にも、それ以前の戦争にも大義名分があります。しかしそのために弱い立場の人々が犠牲となります、十字架上のイエスの姿はそのような大義名分の犠牲となった人々の姿を表しています。

イエスは「罪のない者が石を投げなさい」と言われました。わたしたちも弱い立場の人々の苦しみと無関係ではありません。ピラトや大祭司をはじめとするユダヤ人がしたことを他人事としてとらえるのではなく、わたしたちも同じ社会の一員として、イエスの十字架を仰ぎ見ながら、神の赦しを願いましょう。            (柳 本神父)