8月29日 年間第22主日 マルコ7章1~8,14~15、21~23節  コロナは人を汚すものか

今日から福音朗読はマルコに戻ります。イエスの弟子の中に手を洗わずに食事する人がいたので、ファリサイ派の人々がそれをとがめる ところから始まります。
今日の福音を読むと、イエスは「食事前に手を洗わなくてもいい」と言われているようにも思われますが、衛生上のことを言われているのではありません。食事の前には手を洗うことは幼稚園でも教えています。それに加えて外から帰って来たとき、お店や人の家、幼稚園や教会に入るときには手の消毒もよろしくお願いしますね。

ではイエスはどのような意図で言われたのでしょうか。ファリサイ派や律法学者たちは律法を守ることを何よりも大切にしていました。それは立派なことですが、律法の規定や解釈にこだわって、律法を守っていない人々を「汚れている人々」として見下す傾向がありました。「ファリサイ」は「分離する」という意味であり、律法を守らない人々から分離している者であるからだ、といわれています。
つまりイエスは、律法を守る自分たちは清い存在であって、守らない人や異邦人は汚れた人々として見下し、交わらないようにしているという、彼らの態度をとがめられたのです。イエスの弟子たちはいわゆるユダヤ教徒でしたが、徴税人や漁師出身で律法を守っていない人々が多かったようです。ファリサイ人や律法学者は彼らを非難し、彼らと交わっているイエスを批判していました。
イエスは神に従うという律法の精神を重んじながら、律法を越えて神との交わりを深めることを教えられました。それは、「第一の掟は神を愛すること、第二の掟は人を愛すること」というイエスの教えに表れているように、人との分離ではなく交わりを大切にする教えでもあったのです。

しかし、コロナ下の現在、人と接することは危険とされています。「市場から帰ったときには身を清めてからでないと食事をしない」という習慣は、「人の大勢集まるところから帰ったときにはまずシャワーを浴びましょう」というコロナ対策を思い起こさせます。けれども、当時の市場は異邦人が多く集まる場所でした。それで、ファリサイ人たちの習慣は、汚れた人々と接したあとには身を清めるという考えからくるものでした。
たしかに感染は人との交わりによって広がります。けれども、感染している人は汚れている人ではありません。一人の病人です。感染を恐れるあまり、感染している人の人格を否定するような態度をとることは許されるべきではありません。
「コロナより恐いのは人間だ」とも言われます。感染に苦しむ人への思いやりを忘れ、人を否定することによって自分を守ろうとすることは、まさに「人の中から出るものが人を汚す」状態です。感染者への思いやりを忘れず、回復を祈りましょう。そして人と対面で会うことが困難であっても、心の交わりを大切にしていきましょう。  (柳本神父)