8月7日 年間第19主日 ルカ12章35~40節 主人を心待ちにする僕

今日の箇所のテーマは「目を覚ましていなさい」です。これは、世の終わりがいつ来るかわからないという教えのもとで語られているので、終末を告げる内容となっています。今週もイエスがエルサレムへ向かう途上で語られたみことばなので、ルカ福音書では受難と復活を神の国の到来と結びつけて考えられているのだということでしょう。

「腰に帯を締め、ともし火をともして」とは主人が帰ってきたらすぐに給仕ができるように用意しているという意味です。これには仕事や義務として主人を待つのではなく、「喜んで待つように」という意味があるようです。僕は「寝ていたら叱られるから」「戸を開けないとクビになるから」というような思いではなく、早く帰ってきてほしいという心で待ちます。そして給仕をしながら主人と語らうことを楽しみにします。なぜなら、この主人はイエスご自身だからです。
しかも、この主人は腰に帯を締めて給仕してくれます。本来ならばそんなことはあり得ません。ちょっとやりすぎだと思いますが、やはりこの主人はイエスだということですから、イエスの「仕える主」の姿が表されています。最後の晩さんのときに弟子たちの足を洗ったイエスの姿を思い起こすこともできるでしょう。主人であるイエスも待っていてくれた僕のことを喜んでくださっているしるしです。
その主人はいつ帰ってくるかわかりません。現代ならスマホで「これから帰るから待っていてくれ」と連絡することもできますが、イエスの時代にはそんなことはできません。けれども、この僕は主人が大好きですから、待つことも苦になりません。寝ないで用意して待ち続けるのです。
「人の子は思いがけないときに来る」というのも同様の意味ですが、直接的には世の終わりがいつ来るかわからないといことを表しています。福音書が編集された初代教会では世の終わりは近いうちに来るがいつ来るかわからない、と考えられていたのでこのような表現がなされているのでしょう。しかし、世の終わりは神の国の完成ですから、これまたわたしたちが心待ちにするべきことなのです。
神の国はイエスとの出会いの積み重ねです。わたしたちも日常生活のさまざまな機会にイエスと出会います。たとえば人との交わりの中で、あるいは祈りの中で、病気の苦しみや不安の中で。しかし、そのようなときにイエスを忘れていると出会うことができません。せっかくそこに待っておられるのにスマホばかり見ているのはもったいないことですね。

みなさんも親が夜に外出しているときに、「寝ないで待っている」という体験があったことでしょう。子どもが親の帰りを待ちわびているように、私たちもイエスとの出会いを待ちわびます。子どもは親が帰ってきたとき「聞いて聞いて!」と積もる話題を語ります。わたしたちはイエスに出会ったときに何を語るのでしょうか。      (柳本神父)