9月19日 年間第25主日 マルコ9章30~37節  だれがいちばん偉いか

先週の福音で、イエスは最初の受難予告をされました。今日の箇所は二回目の受難予告とそれに続くところです。先週同様、イエスと弟子のやり取りを通して、ご自分の使命を明らかにされていきます。

弟子たちは、「だれがいちばん偉いか」と議論していたようです。自分たちの間で、偉いのはだれかという議論だったのでしょう。このような考え方は、わたしたちの社会で不通にありますし、わたし自身もしてしまっていることに気づくことがあります。「わたしは誰々よりもよく頑張っている」と思ってしまったり、逆にほかの人が活躍しているのを見ると「自分は仕事をしていない」と思ってしまったり…。人と比べて心の中でランク付けをしてしまっているのですね。それは弟子たちと同じように、人と比べながら「いちばん」偉いのはだれか、を心の中で考えてしまっているわけです。
それに対し、イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての者の後に」と言われます。「先になりたい者は後に」とは、弟子たちの考える順位を覆す教えです。「後になったら偉くなれるよ」と言われているようにも思えますが、イエスはランク付けや人と比べること自体が無意味だ、とおっしゃっているようです。
そして、一人の子どもを真ん中に立たせ、抱き上げて「このような子どもを受け入れる者はわたしを受け入れ、わたしを受け入れる者はわたしをお遣わしになった方(父)を受け入れる」と言われます。イエスが子どもを真ん中に立たせた時点で、神の国の中心はこの子供のような存在であることを示しています。当時、子どもは仕事もできない、宗教的には律法を守ることもできない存在として評価されていませんでした。社会的に「役に立たない」立場であったわけです。障がい者や病人も同様でした。
このように、今日の福音は弟子たちが考える価値観と、イエスが示される価値観が対比される形になっています。「役に立つか立たないか」「だれがいちばん偉いか」というこの世の価値観と、「人の価値は比べることができない」「弱い立場の人が中心である」という神の国の価値観の違いです。そして、神の国の価値観を受け入れる人はイエスを、さらに天の父を受け入れるということを教えてくださっています。

もうかなり前ですが、故・西野猛生神父さんが、京都の正義と平和協議会大会のテーマとして「だれがいちばん偉いか」を提案されたのを思い出します。弱い立場の人のことを大切に考えられている西野神父さんらしいなあ、と感心したことを憶えています。
この世に生きるわたしたちは、ついついこの世の価値観に基づく考え方をしてしまいます。けれども、人と比べて落ち込んでしまったりしたとき、自己嫌悪に陥ってしまったときこそ、そのような価値観から解放されるチャンスです。弱い立場の人を中心に考えてくださるイエスがそこに立っておられます。               (柳本神父)