9月4日 年間第23主日 ルカ14章25~33節 腰を据えて考えるべきこと

今日の福音の前には「大宴会のたとえ」が省略されています。それについては先週少し触れましたが、そのあとに続くのが今日の箇所です。今日の福音もイエスの教えとしては非常に厳しい内容となっています。

イエスの教えとしては三週間前の年間第20主日と共通するところがあります。いずれの箇所もイエスに従う厳しさについて語られているのですが、どちらも受難に向かう途上における教えであることが反映されているようです。
ここでイエスは二つのたとえを語られます。一つは塔のたとえ、もう一つは戦争のたとえです。塔ではありませんが、長らく琵琶湖畔に未完成のホテルが放置状態でした。かつての大阪万博の旅行者を当て込んで建設が始められたのですが、資金繰りがうまくいかず、コンクリートむき出しの状態で20年間放置されていました(その後爆破解体されましたが)。これなどは建て始める前によく考えなかった例かもしれません。
戦争のたとえは戦う前に味方の戦力と敵の戦力をよく考え、勝てないとわかったら和睦するという話です。神を戦う敵にたとえるのには違和感があるかもしれませんが、どちらのたとえにも共通するのは「まず腰を据えて」計算し、考えるということです。塔を建てたいという自分の思いだけに駆られて舞い上がっていないか、領土を拡げる思いにとらわれて戦争を準備していないか、腰を据えてよく考えることが大切だということです。ではわたしたちは腰を据えて何を考えるのか―それが今日の福音のテーマだといえるでしょう。
イエスは最初に「家族や自分の命を憎む」「自分の十字架を背負ってついて来る」ことを、最後には「自分の持ち物を一切捨てる」ことを要求されます。非常に厳しい要求です。わたしなどは捨てられない物がいっぱいあってイエスの教えに反している状況です。その前に整理整頓しろと言われているようでもありますが。しかし、年間第18主日の「愚かな金持ち」のたとえ話で言われているように、この世のものはあの世に持って行くことはできません。ではこの世のことはどうでもいいから、あの世だけ考えなさいとイエスは言われたのでしょうか。

イエスのみことばの中心は、この世の生き方です。あの世のことだけを教えておられるのではありません。しかし、この世は神の国とつながっています。イエスは今のわたしたちに、この世でどう生きるのかを問いかけておられます。
この前も書いたように、神の国の中心は、貧しい人や病気の人、孤独な人など、この世でみんなが求めているものを得ることができない人々です。そのような人々は捨てたくても捨てるものがありません。イエスはそのような人々とともにおられ、ご自身も一切を捨てられました。わたしたちが「腰を据えて考える」べきは、目先のことにとらわれず、イエスとともに神の国を求める生き方なのではないでしょうか。      (柳本神父)