9月5日 年間第23主日 マルコ7章31~37節  神の国に向けて心を「開く」

先週、イエスがファリサイ人たちをいさめられたのは、ガリラヤのゲネサレトでのことでした。その後、イエスは異邦人の地であるシリア・フェニキアを経て、ガリラヤ地方に戻ってこられます。今週の福音はそこでのいやしの出来事です。

イエスの評判が広まっていたためか、人々は耳が聞こえず口の利けない人を連れてきました。この人は、障がいのために不自由な生活を強いられていましたが、 宗教的にも疎外されていました。会堂の集会でみんなといっしょに祈り、歌うことができず、聖書の朗読やラビの説教を聞くことができませんでした。さらに、そのような障がいや病気は、本人や親が犯した罪の報いのよるものとして、罪人と同様に見なされていたのです。
人々が、この人をイエスのもとに連れてきたということは、罪人とみなされている人を見捨てず、気の毒に思って、なんとか助けてあげたいという思いがあったからではないでしょうか。ほかの奇跡でも見られることですが、イエスはまわりの人々の思いに対する共感も持っておられたと考えられます。中風の人を連れてきた人々、娘のいやしを願った会堂長ヤイロなど、本人よりもまわりの人々の思いを受け止めて奇跡を行われています。
イエスのいやしは、強い共感に基づくものでした。「天を仰いで深く息をつき」という言葉にそれが表れているように思います。ため息ともとれるそれには、イエスの思いが詰まっていたことでしょう。そしてその思いはいやされる人だけでなく、連れてきた人々、集まっていた人々が心を合わせて願った思いと一つになったのです。「二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」(マタイ18章19節)というイエスの言葉はここに実現しているのです。

イザヤ書35章5~6節に「そのとき、見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開く。そのとき、歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。口の利けなかった人が喜び歌う。」という預言があります。エルサレムへの帰還の喜びを歌ったものですが、同時に神の国の完成を象徴しているとも考えられます。歩けなかった人が歩けるようになる以上に躍り上がる、口の利けなかった人が話せるようになる以上に喜び歌う。ここに、回復した人が世界の中心にいる姿が示されているのではないでしょうか。これこそ神の国です。イエスのもとに連れて来てもらった時点で、すでにその人はみんなの中心にいるのです。そして、集まっている人の心を一つにするという大きな役割を果たしていたのです。
開催に際してはいろいろな意見もありますが、パラリンピックの選手の姿はこのいやされた人の姿と重なるのではないでしょうか。障がいを乗り越えて活躍する姿に、わたしたちはイエスがいやしの奇跡を通して示された神の国を見ることができます。イエスが言われた「エッファタ(開け)」という言葉は、その人の口や耳を「開く」だけでなく、わたしたちの心を神の国に向けて「開いて」くださるのです。        (柳本神父)