12月8日 待降節第2主日 ルカ3章1~16節 新約の時代への橋渡し
今日の福音では洗礼者ヨハネが登場し、救い主の到来が告げ知らされます。ヨハネが出てくるといよいよクリスマスが近いという感じですね。ただし、彼が救い主を告げ知らせたのはイエスが洗礼を受ける直前ですから、時系列的には降誕より30年あとの出来事だということになります。でも当時の人々は洗礼者ヨハネの証しによって救い主を知ったわけですから待降節の意味にふさわしいといえるでしょう。
洗礼者ヨハネは旧約最後の預言者と言われます。新約聖書に登場するのですが、預言者によって神の教えを受けた旧約の時代を終わらせて、新約の時代、つまりイエスの福音に橋渡しをする役割をしているのです。
彼は荒れ野で悔い改めの洗礼を授けていました。本来ならば、聖地エルサレムの神殿で救い主を宣べ伝えるはずでした。しかし、エルサレムの町は権力者によって、神殿は宗教的エリート(祭司階級や律法学者、ファリサイ人)によって支配される場所でした。それでヨハネは堕落したエルサレムを見捨て、荒れ野で宣教したのです。もちろんそこに洗礼を授けるための川があったことも理由だったでしょうが。
ヨハネを表しているとされるのはイザヤ書の40章3~5節です。少しアレンジされていますが、内容は同じです。イザヤ書ではバビロン捕囚からの帰還を第二の出エジプトととらえています。いずれも荒れ野を通って約束の地へ向かいました。「荒れ野の道」はそのことを表しています。そして、新約聖書では、イエスによる救いを新しい出エジプト、すなわち新しい「過越」と考えています。洗礼者ヨハネの証しは救い主へと導く「道」ということなのでしょう。その道を整備して通りやすくするということですね。
「谷は埋められ、山と丘は低くされる」というと大規模な自然破壊のように思えますが、それまで神との間をさえぎっていたものが取り払われ、ストレートに神の栄光が届くという意味です。たしかに旧約時代は預言者を通して神のメッセージが届けられ、イスラエルの民は間接的に神とのかかわりを持ったのでした。靴の上から足を掻くような感じでしょうか。あまりいいたとえじゃないですね。預言者のみなさん、ごめんなさい。それに対して、イエスが福音を告げられた新約の時代は神ご自身がストレートに神のことばを告げられたのです。まさに痒い所に手が届くということですね。それどころか、福音は貧しい人々から始めて、世界の隅々にまで告げ知らされるようになったのです。
洗礼者ヨハネの登場にまつわる聖書の記述は、単に救い主の到来を準備するということだけにとどまらず、神とのかかわりが劇的に変わる時代が来るということを表しています。わたしもこの文章を書きながら、洗礼者ヨハネの到来の意味を新たに考えることができました。わたしたちはさらに新約の時代に生きているという喜びを深めるためにも、洗礼者ヨハネの叫びに耳を傾けたいと思います。
(柳本神父)