12月15日 待降節第3主日

12月15日 待降節第3主日 ルカ3章10~18節 イエスの先触れとなる

 今日の福音も先週に引き続き洗礼者ヨハネが登場します。一連の箇所でもあり、よく似た内容ですので、司祭としては説教に困るのですが、共同宣教司牧なので先週とは違う教会に行けるので助かります。とはいえ、このコーナーでは同じ話というわけにはいきませんので違うポイントから考えてみたいと思います。

 ヨハネは救い主の到来を告げる者、いわば先触れでした。お祭りのときに触れ太鼓がまず来て「もうすぐみこしが来るぞー」と太鼓を鳴らすような立場ですね。何でも日本文化にたとえるのはわたしの悪い癖ですが。それで救い主を迎える準備として悔い改めの洗礼を授けていました。
ヨハネのもとを訪ねてきた人々の中には徴税人や兵士が含まれていました。徴税人はユダヤ人でありながらローマ帝国の配下として税金を取り立てる仕事でしたので、人々から嫌われていました。とくに、他国に税を納めるのは律法に反することなのでなおさらでした。兵士はおそらくローマ兵だと思われます。ローマ人なら異邦人、ユダヤ人兵士なら裏切り者だということになります。ヨハネはそのような人々にも指導を与えた上で洗礼を授けていたようです。
ヨハネについてわたしは律法に忠実で自分に厳しい人であり、罪びとや異邦人に対しても厳しく接するというイメージを持っていたのですが、あらためてイエス同様にそのような人々にも神の教えを告げる人であったことを再認識しました。まさにイエスの先触れとしてふさわしい立場であったと感じます。
「悔い改め」というと心を入れ替えて真面目に生きるようにするというイメージがありますが、それは非常に困難なことです。先日もわたしは刑務所の宗教講話で「人間は心を入れ替えることはできません。性格を変えることもできません。」とお話ししました。ではどうすればいいのでしょうか。
それは自分を変えるのではなく、自分の性格や心はそのままで神に心を向ける、ということです。それで教会では「改心」ではなく「回心」という字を使います。そうすると自分の性格は同じでも、それをよい方に活かすことができるわけです。そこに聖霊の働きがあります。ありのままの自分を神に差し出すことによって、わたしたちをよい方向に導いてくださるのです。

 ヨハネはイエスのことを「聖霊と火で洗礼をお授けになる」方であると告げました。ヨハネの洗礼は救い主を迎えるための洗礼でしたが、イエスはわたしたちに聖霊をつかわしてくださる方だということです。
聖霊はわたし個人だけでなく、社会に希望を与えます。わたしたちも洗礼者ヨハネと同じように、世界にイエスを指し示すために働くことができるのです。

(柳本神父)

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