12月22日 待降節第4主日 ルカ1章39~45節 イエスとともに行う希望の巡礼
いよいよ主の降誕を前に、今日の福音はマリアのエリサベト訪問の箇所が朗読されます。先週から時間的には戻りますが、イエス誕生の前の出来事になります。この出来事を通してわたしたちはどのように主を迎えるべきかが語られているのではないでしょうか。
今日の入祭の歌は「天よ露をしたたらせ」です。イザヤ書と詩編から組み合わされていて、平和の君である救い主を待つ内容です。神学生時代、わたしたちはこの歌を「天つゆ」と呼んでいました。ちなみに降誕節の「やみに住む民は光を見た」の略称は「やみ民」でした。
さて、今日の福音ではマリアがエリサベトのもとを訪ねます。高齢で身ごもった、親戚のエリサベトを案じて身の回りの世話をしに行ったのでしょう。マリアも身ごもっていましたがまだ妊娠初期か安定期だったのでしょうか。エリサベトが身ごもったのは神の導きがあったためですが、マリアも聖霊によって身ごもっています。エリザベトはそれを知っていたのか、マリアとおなかの赤ちゃんを祝福します。そして最後に「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方はなんと幸いでしょう」と言います。マリアが幸いなのは、神の母であるからというよりも、神への信頼と信仰があるからなのです。実はエリザベトも自分の妊娠を神の力によるものであると信じていたのです。
しかし、この二人に限らず、すべての命は神から与えられたものです。そのことを信じ、神の恵みによって授かった命を神さまの子どもとして育てる親は同じように幸いだといえるでしょう。それは両親、またはどちらかが信者でなくても同じことです。すべての母親はエリサベトのようにおなかの赤ちゃんがおどる(動く)体験をしているはずですから。
ところでクリスマスの前日、バチカンでは聖年の扉が開かれ、一年間の聖年が始まります。教皇が示されたテーマは「希望の巡礼者」です。今日の福音のマリアもエリサベトのもとを訪ねる巡礼者だといえるのではないでしょうか。マリアのおなかにはイエス、エリザベトのおなかには洗礼者ヨハネがいるので、巡礼としては逆のように思うかもしれません。エリサベトも「どういうわけでしょう」と言っていますしね。
巡礼というと聖地を訪問するイメージがありますが、助けを必要とする人々とともに歩むことも巡礼です。それも「希望の巡礼者」ですから、希望のうちに巡礼するだけでなく、希望を分かち合う巡礼でもあります。マリアのエリサベト訪問はそのような巡礼なのです。
マリアはイエスを伴ってエリサベトを訪ねました。しかし、聖体を伴う病人訪問だけではありません。わたしたちの心の中にはイエスがおられます。あらゆる奉仕活動や人との交わりを神とのかかわりの中で行うとき、それは希望の巡礼となります。マリアもエリサベトのもとを訪ねたとき、ともに神の導きを喜びあい、楽しい時を過ごしたことでしょう。希望の巡礼の機会はいつどこにでも用意されているのです。
(柳本神父)