1月5日 主の公現 マタイ2章1~12節 「希望の巡礼者」である学者たち
主の公現の祝日は1月6日ですが、キリスト教国でない日本では1月2日から8日の間の日曜日に移して祝われます。今日は、東方の占星術の学者の来訪の福音を通して主の公現を祝います。
公現とは読んで字のごとく、「公(おおやけ)に現れること」です。公といっても3人やないか、と思うかもしれませんが、学者たちはその代表だということです。さらに、聖書には3人とは書かれていません。贈り物の数から3人ということになったようです。さらに「三王の礼拝」などと称されますが、もちろん王様ではありません。
「公現」はギリシア語ではエピファネイア、「輝き出ること」という意味です。主の栄光が輝き出た、という意味です。とはいえ、馬小屋(マタイでは家)から光が出ていたわけではありません。それじゃまるでかぐや姫ですね。そういえば広陵町は「かぐや姫のふるさと」とされており、竹取公園にはかぐや姫の竹の形のトイレがあります。ちょうど西大和と大和高田の間にあるのでよく利用させていただいています。なお、広陵町の「まちの駅はしお元気村」の巨大かぐや姫は夜間ライトアップされているのでまさに輝き出ているといえますね。
では学者の訪問がなぜ「輝き出ること」なのでしょうか。学者たちは「占星術の学者」でしたが、イスラエルでは占いは律法で固く禁じられていました。しかも、彼らは東方の国の異邦人でした。もともと異邦人は異教徒であり、ユダヤ人にとっては敵であり罪びとでした。当然そのような人々は神にふさわしくないと考えられていました。そんな彼らが救い主に会うことができたのです。救い主はイスラエルの王となるべき者であると考えられていました。イスラエルで多くの人々が待ちこがれていた救い主は異邦人に姿を表したのです。まさにこれこそ主の栄光が世界中に輝き出すしるしだったのではないでしょうか。
学者たちは贈り物を捧げたあと、また国へ帰っていきました。おそらくその表情は明るく、喜びに満ちた帰路だったのではないでしょうか。そして地元に帰ったあと、幼子のことを周りの人に伝えたと思います。その後数百年たってからキリスト教が宣教師によって彼らの国に伝えられたことでしょう。そのときに「わたしの先祖がベツレヘムで出会ったと伝えられています」という人がいたかもしれないと想像すると楽しいですね。
今年の聖年にあたり教皇は「希望の巡礼者」というテーマを定められました。しかし、巡礼地に行くことだけが巡礼ではありません。希望を求める人にそれを分かち合うことも巡礼です。学者たちのベツレヘムへの旅はまさに希望の巡礼でした。長い道のりを苦労して旅をしたのはこの世に生まれた救い主に会えるという希望があったからです。そして、帰路はこのことを地元に伝える巡礼でした。学者たちの姿は聖年を迎えたわたしたちに、「希望の巡礼者」の姿を示されているといえるでしょう。
(柳本神父)
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