1月12日 主の洗礼

1月12日 主の洗礼 ルカ3章15~16、21~22節 「わたしの愛する子」として生きる

  主の洗礼の主日で降誕節は終わります。翌日から年間第一週に入ります。年間はイエスの宣教を記念する期間です。イエスは洗礼を受けられたあと、宣教生活に入られたので、今日は年間への橋渡しとなる主日であるといえるでしょう。

 ヨハネは、「その方(イエス)は聖霊と火で洗礼をお授けになる」と預言していますが、今日の箇所で洗礼を授けるのはヨハネのほうです。それにしても、疑問に感じるのは、なぜイエスがヨハネから洗礼を受けなければならなかったのか、ということです。ヨハネの洗礼は「悔い改めの洗礼」だったのですが、神の子であるイエスは悔い改める必要はなかったはずです。「悔い改め」というと、悪いことを反省して改めるということと考えますが、もともとの言葉の意味は「向きなおす」「置きなおす」という意味があったということなので、イエスの場合は私生活から公生活へと居場所を変えるという意味があったのではないかとも考えられます。いわばターニングポイントであったということです。
 重要なことは、イエスが洗礼を受けたときに起こった出来事です。天が開け、聖霊が降り、神が愛する子であると宣言されました。これは、それまでのヨハネの授けていた洗礼にはなかったことです。このあと教会で秘跡としての洗礼が授けられるようになるのはもっと後のことですが、これらの出来事は洗礼の秘跡と共通します。つまり、イエスが受けた洗礼はわたしたちが教会で授かる洗礼の、まさに「先例」であったということです。われながらうまいこといいますね()
 天が開いたのはイエスが父のもとから来られたことを示しますが、イエスによって神とこの世が結ばれたということでもあります。これはこの世に悔い改めの機会があたえられたということです。イエスがこの世の人類を代表して神に立ち返るあり方を示されたのです。そして聖霊は鳩のように降ったということで、教会では鳩の姿で表されることがありますが、鳩が聖霊なのではありません。神の使いである春日さんの鹿やお稲荷さんの狐などとも意味が違います。鳩のような動きで天から舞い降りてきたということでしょう。
そして「神の子」宣言ですが、父がイエスをご自分の最愛の子と宣言されたと同時に、イエス自身も自分が神の子であると自覚したことを表しているのではないかと思います。そしてイエスは父の愛を伝えるために宣教に出かけたのでした。

 洗礼は神の子どもになる秘跡であると言われます。しかし、イエスの洗礼とのつながりで考えると、正しくは「神の子として生きる」ための秘跡であるといえるでしょう。幼児洗礼の場合は両親が「神の子として育てる」ということです。洗礼を受けていても受けていなくても神さまの愛する子どもなのですが、洗礼を受けたときから神とともに生きる生き方を自覚するわけですね。そしてイエスのように、神の愛を伝え、分かち合う使命が与えられます。「あんたも『神の愛する子、心に適う者』なんやで」と。

(柳本神父)

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