2月23日 年間第7主日 ルカ6章27~38節 いと高き方の子として歩む
今日の福音は先週に続く箇所です。マタイの「山上の説教」に対して「平地の説教」と呼ばれている箇所ですが、一連の説教はさまざまな場面で語られたものが集められていると言われています。とはいえ、イエスが弟子たちや多くの人々に向けて最初に話された説教とされているので、とくに重要なイエスの教えとして初代教会に伝えられてきたものだと考えられます。
ここでイエスは敵を愛しなさいと教えられます。一般的にもよく知られている「あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい」という言葉はここに出てきます。「あなたの持ち物を奪う者から取り返そうとしてはならない」という教えはちょっと極端に思えますね。警察の防犯課の方が聞いたらどう思われるでしょうか。「取り返そうとして逆に危険な目に合わないようにまず110番、それより防犯を」と言われるかもしれません。そういえば「気いつけや、あんたのことやでそのバッグ」という大阪府警の標語がありましたね。イエスの教えの意味は、そうではなく、喜んで与えなさいということです。
さらに、「敵を愛しなさい」と言われると、戦争で戦う相手や迫害する人々を思い出すかもしれません。たしかにそのような敵を愛するには大きな覚悟と信仰が必要です。けれども、今の日本社会ではそのような敵の存在は遠い出来事のように思われることでしょう。しかし、「悪口を言う者」や「侮辱する者」は身近な存在です。わたしたちも「会いたくないな」「来てたらいやだな」と思う人の一人や二人はいるはずです。これを読んでいるあなたもだれかの顔が浮かんでいることでしょう。
わたしたちの身の回りには仲のいい人、話の合う人ばかりではありません。そうでない人は敵とまでは言わなくても、苦手な人です。また、その人とのかかわりに時間を取られたり、その人のことで頭がいっぱいになったりするとき、その人は「自分の時間を奪い取る者」だといえるでしょう。
自分の心を守るためにそのような人々と距離を置くことも必要です。けれども、その人の存在を否定することはできません。なぜなら、自分がそうであるように、その人も神に愛されている人だからです。なかなかそれを受け入れることは困難ですが、その根本には人を分け隔てなく愛される神の存在があるということです。
わたしたちが人のことを考えるとき、自分の判断だけが正しいと思ってしまいます。でもわたしが嫌いな人、苦手な人にも友達がいて、ほめる人がいることに気が付きます。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」では、蜘蛛を助けるというたった一つの善行によってお釈迦さまはカンダダを救おうとされました。わたしたちの神もひとりひとりのよいところを見てくださいます。わたしにできない愛を、神はなさっているということを信じるとき、わたしたちもいと高き方の子として歩むことができるのではないでしょうか。
(柳本神父)