4月13日 受難の主日

4月13日 受難の主日 ルカ19章28~40節、23章1~49節  苦しみをささげる王の姿

  今日から次週の日曜日まで教会は「聖週間」として主の受難と復活を記念します。言うまでもなく復活は信仰の原点であり、典礼的にも一年の頂点と言われています。今日はその始まり「受難の主日」ですが、ミサの始めに主のエルサレム入城を記念するので「枝の主日」というほうがみなさんにはなじみがあるかもしれません。
 枝の行列の際にはエルサレム入城の福音が、言葉の典礼においては受難の場面が朗読されます。これらの二つの朗読箇所を通して今日の主日の意味を考えたいと思います。

 わたしはこの原稿を書くときに「毎日のミサ」を使っているのですが、聖週間と復活の八日間は別冊になっているのでちょっと困ります。司祭の集まりで「別冊をいちいち探さなあかんので不便だから聖週間も毎日のミサに載せてほしいと思いませんか」と言うと、「ちゃんと整理していないあんたが悪い!」と一蹴されました。そう言われたら、ぐうの音も出ませんね。ということで何とか別冊を見つけだして書いています。
 今日の二つの福音は対称的です。枝の行列の前の福音はイエスが歓呼の声に迎えられてエルサレムに入るという晴れがましい光景でした。それに対し、ミサ中に読まれる福音は受難の朗読でイエスが罵声を浴びせられて十字架につけられるという悲劇的な内容です。
 しかし、この二つの朗読には共通点があります。それは「イエスが王であるかどうか」ということです。エルサレム入城の際には弟子たちは「王に祝福があるように」とイエスを讃えます。マタイの福音では群衆が「ダビデの子にホサナ」と叫びます。「ダビデの子」とはイスラエルの王となる者であり、救い主を表します。しかし、その数日後、イエスは犯罪人として捕らえられ、ピラトから「おまえはユダヤ人の王か」と尋問されます。ローマ人で総督のピラトはユダヤ人を見下していたようで、彼にとっては「ユダヤ人の王」は軽蔑の意味がこめられていました。また、ヘロデ王もイエスを侮辱してピラトのもとに送り返します。ここではイエスが「王」であることが犯罪人のしるしとなっています。はたしてイエスのどちらの姿が王であるイエスを表しているのでしょうか。
 受難の主日にはA年がマタイ、B年がマルコ、そしてC年の今年はルカが朗読されます。聖金曜日は毎年ヨハネの福音の受難の朗読です。そこでイエスは「わたしの国はこの世に属していない」とピラトに語られます。イエスにとって王とは、この世の国を支配する王ではなく、奉仕する王であり、人々のために自分を犠牲にする存在でした。その意味において受難の朗読のほうにイエスの王の姿を見ることができるといえるでしょう。

 受難の朗読は、「この人は正しい人だった」という百人隊長の言葉で締めくくられます。マタイとマルコでは「神の子だった」と記されていますが同じ意味でしょう。このことは、異邦人に信仰が広まることのしるしです。つまり、すべての時代のすべての人のために苦しみをささげてくださった王の姿を表す朗読でもあるのです。

(柳本神父)

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