6月1日 主の昇天

6月1日 主の昇天 ルカ24章46~53節  イエスはどこへ行った?

 復活されたイエスは女性たちや弟子たちに姿を表し、しばらく地上で生活された後、五十日目に昇天されました。今日はその記念ですが、五十日目というと前の木曜日、つまり復活節第6木曜日にあたります。しかし、キリスト教国ではない日本などでは平日なので五十日目の次の日曜日、復活節第7日曜日に祝うことになっています。それで本来あるはずの復活節第7主日は消えてしまっているわけですね。その日の聖書朗読箇所もあるのですが今日は読まれません。その代わりに復活節第6主日に読んでもいいことになっています。そして今日は第一朗読と福音で主の昇天の出来事が朗読されます。

 さて、イエスは昇天してどこへ行かれたのでしょうか。「どこって、天に決まってるやんか」。たしかにそうですね。聖書にもそう書いてありますし、第一朗読では弟子たちが空を見上げていたことから、空に向かって上がっていかれたことは確かでしょう。しかし、雲の上を探しても天国はありませんし、イエスはおられません。大切なポイントは、空に上がったことよりも「見えなくなった」ことです。ここでルカ24章のエマオでの出来事を思い出してみましょう。途上で旅人と出会った二人の弟子は、食事の際にその旅人がパンを裂いたときにイエスだと気づいたのですが、姿が見えなくなりました。そのときに「二人の目が開け」と記されています。目が開いたならイエスがそこにいるはずですが、逆に見えなくなります。しかし彼らは、見失ったことを悲しむことなく急いでエルサレムに戻ります。イエスが復活したことを仲間に伝えるためです。
 今日の福音でも弟子たちは大喜びでエルサレムに帰ります。イエスが天に上げられたのはめでたいことではありますが、彼らにとっては別れです。せっかく五十日も一緒にいたのにもっといてほしいと思ったことでしょう。けれども、生身のイエスが弟子たちと一緒にいたらほかの人たちと会うことができません。ということは、イエスの姿が見えなくなったということは、霊的な存在として、弟子たちは心の中でいつでも会えるようになられたのだということです。そしてそのことは、聖霊降臨を通してはっきりと表されることになります。そのように考えると、復活・昇天・聖霊降臨は別々の出来事ではなく、イエスがともにいてくださるためのプロセスであったということもできますね。

 以前、ミサの説教で一人の子どもに来てもらい、イエスの絵をそっと背中に張り付けるといういたずらをしました。「イエスさまはどこにいったのかな?」とさがしてもらいましたがもちろん見つかるはずはありません。それはイエスを背負っているからですね。外にあるものは見えますが、自分のうちにあるものは見ることができません。エマオでの弟子たちがイエスの姿が見えなくなったのは、心の中に来られたからだと考えることができます。わたしたちがイエスを心の中に迎えるとき、そこは「天」となります。「天」は神さまがいらっしゃるところなのですから。              

(柳本神父)

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