7月13日 年間第15主日

7月13日 年間第15主日 ルカ10章25~37節 隣人になるためにできること

 先週の福音の弟子たちの派遣のあと、彼らは喜んで帰ってきます。イエスもそのことを喜び、神に感謝をささげます。そのあと、律法の専門家の質問に答える形でイエスは隣人愛について教えられます。

 律法の専門家がイエスとの対話の中で、第一の掟と第二の掟を教えられる場面はマタイとマルコにもありますが、ルカでは「永遠の命を受け継ぐ」ために何をするべきか、という問いから始まります。そしてその掟を答えるのは彼のほうです。彼はイエスに批判的なようで、自分を正当化しようとします。おそらく彼は、自分は掟をしっかり守っていると考えていたのでしょう。彼にとって隣人とはユダヤ人の仲間であり、その仲間との交わりは大切にしていました。サマリア人や異邦人は隣人ではないと考えていたのでしょう。しかし、イエスはここで有名な「よいサマリア人のたとえ」を話されます。
 この話にはこの律法の専門家が隣人と考えている祭司やレビ人が登場します。しかし彼らは強盗に襲われた人を避けるように通っていきます。神に仕える身でありながら心が冷たい、と思われますが、ここでわたしは彼らの弁護をしましょう。というのは、神殿祭儀にかかわる人は身を清める必要があり、死体や血に触れるとけがれると考えられていたからです。もしけがれてしまうと、律法に従って七日間仕事ができなくなります。それで死んでいるかもしれない人を避けるのは仕方がなかったかもしれません。しかし、通りがかったサマリア人は「この人はわたしを必要としている」と感じ、今できることは何かを考えました。介抱して宿屋まで連れて行く時間もあり、祭司やレビ人のようにけがれを気にする必要もありません。それで彼はできる範囲でその人を世話することにしたのです。
 この前、鹿を見に行ったとき、歩道に赤い財布が落ちていました。良く目立つのに、みんな通り過ぎていきます。観光客の人々はそれをどうしたらいいかわからなかったのかもしれませんし、面倒なことにかかわりたくなかったのかもしれません。わたしもちょっと迷いましたが、交番の場所も知っているし、今なら時間もあるし、落とした人は困っているだろうと思って駅前の交番に届けました。夕方に警察から電話があって、「外国の方が取りに来られ、とても喜んでおられました」とのことで安心しました。サマリア人の行いには遠く及びませんが、「わたしを必要としていることに気がついてしまった」ことと「わたしならできる」ということは共通していたのではないかと思います。

 イエスは律法の専門家に「だれが隣人になったと思うか」と問われました。最初に彼が考えていたように、「だれが隣人か」を決めてかかわるのではなく、かかわることによって「隣人となる」のです。イエスはわたしたちにも「行って、同じようにしなさい」と言われます。それは日常生活の体験の中で、「わたしを必要としている」人に「わたしのできること」をするように、ということなのではないでしょうか。

(柳本神父)

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