7月20日 年間第16主日

7月20日 年間第16主日 ルカ10章38~42節 だれにでもできる、でもなかなかできないこと

 今日の福音は先週に続く箇所です。皆さんもご存知のマルタとマリア姉妹の家での出来事です。イエスはこの姉妹と兄弟ラザロと仲がよかったようで、ヨハネの福音書によるとたびたび家を訪れていたようですが、このときが最初の訪問ということになります。

 ここで二人の姉妹は対比的に記されています。世話をするのに忙しいマルタとイエスの話に聞き入っているマリア。イエスはマルタを叱っているように思えますね。ここでもわたしは叱られているマルタを弁護しましょう。当時、来客と話をするのは主人をはじめ男性で、女性は給仕する立場でした。マルタはそのような当時の役割に忠実だったのでしょう。また、そばで話を聞いているマリアが邪魔をしていないか心配したのかもしれません。マルタ自身も人の世話をすることが大好きだったのかもしれません。もう30年近く前にこの箇所を分かち合ったとき、何人かの女性は「マルタの気持ちがわかる」「わたしはマルタのように働くと思う」と言われました。今では女性の意識もだいぶ変わっているかもしれませんね。
 イエスはマルタの行為を否定されたのでしょうか。それまで何も言われなかったことから、マルタのしていることも認められたのでしょう。しかしマルタは、マリアにも同じようにすることを望み、そのことをイエスから言ってもらうよう頼みました。イエスはそのことを否定されたのです。マルタのようにもてなしをする人も必要でしたでしょうし、マルタが外に気を配っていなければイエスが家に入ってこられることもなかったでしょう。そのことについてはイエスも喜んでおられるのではないでしょうか。
 しかし、「必要なことはただ一つ」というイエスの言葉にはちょっとひっかかりますね。マリアにとって必要なことなのか、マルタにとっても必要なことなのか。ここには、マルタにもぜひ話を聞いてほしいというイエスの思いが表れているのかもしれません。マルタの言葉からマリアは健康な女性であったようですが、もし働けない体であったらどうでしょう。その場合、できるのは笑顔で迎えること、お話しすること、話を聞くことなのではないでしょうか。どんな人にもできるもてなしは「話を聞くこと」なのです。
 ところが「話を聞くこと」はだれにでもできることであると同時に、なかなかむつかしいことです。ついつい自分の主張をはさんだり、あるいはほかのことを考えたり。現代ならばスマホをいじりだす人もいることでしょう。わたしは話に集中しているつもりでも、気がつけば居眠りしてしまうこともあります。ごめんなさい。

 イエスのみことばは人の心を惹き付けるすばらしいものであったと思いますが、マルタはそれよりも働くことを選びました。せっかくイエスが来ているのにそれはもったいないですね。また、マルタをそうさせた社会通念に対しても、イエスは心を痛められたかもしれません。そしてわたしにとってただ一つの必要なこととは?

(柳本神父)

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