7月27日 年間第17主日

7月27日 年間第17主日 ルカ11章1~13節 しつこく願いなさい

 章は変わりますが、今日は先週に続く箇所となります。イエスは祈りについて教えられます、前半は「主の祈り」を教えられ、後半にはたとえを通して、神に求めることの大切さを教えられます。

 ある弟子がイエスに、「わたしたちにも祈りを教えてください」と願います。洗礼者ヨハネは彼の弟子たちに祈りの言葉を教えていたようです。それでイエスは「こう祈りなさい」と教えられます。これが「主の祈り」です。教会にはたくさんのお祈りがありますが、イエスが教えてくださった祈りはこのほかにはありません。ほかの祈りは聖書から取られたもの、教会で作られたものなどです。マタイにも同じ内容の箇所がありますが、ルカにはない部分もあって、教会で使われているものはそちらを元にしています。
 その前半部分は父なる神に関する願いですが、それは同時にわたしたちの目指す神の国の実現を表しています。後半はわたしたちの日常生活に関する願いです。イエスが教えられた祈りなので、さぞかし理想的な信仰生活を表しているかと思いきや、毎日の糧(パン)、罪のゆるし、誘惑にあわないようにというお願いです。ほんとうならば、パンよりもみことばを与えてください、罪を犯さないようにしてください、誘惑にあっても打ち勝てますように、と願うべきかもしれません。しかし、イエスはわたしたちの弱さをご存知です。食べ物がなければ奪い合う、たびたび罪を犯してしまう、誘惑に負けてしまうのがわたしたちです。ですから、これらの願いを祈るためにはまず自分の弱さを知る必要があります。それはイエスのたとえに出てくる神殿でのファリサイ人の祈りではなく、徴税人の祈りなのです。
 そして、イエスはしつように、つまりしつこく願う人のたとえを話されます。パンを頼まれた友達は、友人だからという理由ではなく、うるさいから仕方なく与えます。イエスのたとえではこのように人間世界の現実的な例を示して「悪い人間でも仕方なく与えるならば、まして良い方である父は喜んで与えてくださる」と教えられます。困ったときには友人に「迷惑なのはわかっているけど頼るしかない」ならば、神にはどうすればよいのでしょうか。そんなとき、わたしたちはついつい、神は何でもご存知だからお願いする必要はない、とか、こんなことを神にお願いするのはふさわしくない、などと考えますが、イエスは遠慮せずに神に求めなさいと言われます。

 わたしたちが神に祈り求めるのは、突然訪ねてきた客人のためのパンのように、いま必要なものを持っていないことを自覚しているからです。では、わたしは何を神に願うのでしょうか。世界平和、苦しむ人々のため、神の国の実現。それらに加えて、主の祈りにあるように、生活で悩んでいることや弱さからくる罪のゆるしなど、身近なことまでなんでもしつこく神にお願いすればいいのです。

(柳本神父)

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