8月3日 年間第18主日

8月3日 年間第18主日 ルカ12章13~21節 財産を求め始めるときりがない

  今週の箇所は先週から少しあとのところです。12章はイエスがまず弟子たち、そして群衆に話されたとされている教えがまとめられています。その中から今日は「おろかな金持ち」のたとえ話が朗読されます。

 イエスの時代、ユダヤ教のラビ(先生)は、神の教えを伝えるだけでなく、生活面での相談にも乗っていたようです。イエスもラビの一人と思われていたので相続のトラブルの調停を頼まれたのでしょう。イエスは、それは自分の役割ではないと拒否されます。イエスは神の国の福音を告げるために来られたからです。そして今日のたとえを語られます。
 今日のたとえ話のお金持ちは、人生の幸せは財産にあると考えているようです。お金を求めるのは悪いことではありません。しかし、イエスが荒れ野での誘惑において悪魔から「権力と繁栄はわたしに任されている」と告げられます。悪魔が神に反する力の象徴であると考えると、これらのものにとらわれることは神から離れてしまうことになるといえます。お金はこの世を生きるために必要なものですが、人はそれを必要以上に求めてしまいます。投資を語る詐欺にひっかかったり、ギャンブルで一攫千金を夢見て大金をつぎ込んだりするのもその表われでしょう。また、富豪となることがしあわせであるという考え方も根強いです。しかしそれらはこの世でしか通用しないことです。この金持ちも財産を残してあの世に行くしかないのです。
 この世の財産はあの世に持って行けるものではありません。それでも三途の川の渡し賃としてお棺に六文銭を入れる習慣がありましたが、現代の法律では貨幣を故意に損傷することは法律違反になりますのでお金を入れることができません。それで六文銭を印刷した紙や、中国や韓国では副葬品専用のお札を入れることがあります。モノポリーのお札や、おもちゃの「こども銀行券」みたいなものですね。これらは遺族が故人を無事に送り出したい気持ちの表れですが、ほんとうは必要のないものでしょう。
 そして、このお金持ちはまわりの貧しい人々に気づいていません。自分の力で儲けたとはいえ、そこには運や条件が働いています。おそらくこの人は先祖から豊かな土地を受け継いだのでしょう。また、たくわえをできるのは気候条件に恵まれて豊作になったからです。それは自分の才能ではありませんし、努力して儲けたからといって飢えている人を尻目にぜいたくに食べたり飲んだりして楽しむことができるでしょうか。

 もちろん老後に備えることや、子や孫に財産を残す気持ちもわかります。そこで必要なことは、生まれてきた環境によって左右されることなく、老後も心配なく過ごせる社会の仕組みをしっかりと作ることが必要でしょう。お金は持てば持つほどもっと欲しくなります。イエスが言われるように、そうならないように用心して、神がどのような生き方、どのような社会を求められているかをしっかり見つめることが必要です。 

(柳本神父)

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