8月10日 年間第19主日

8月10日 年間第19主日 ルカ12章32~48節 目を覚ましてイエスとの出会いに気づく

 先週の「愚かな金持ち」のたとえのあと、「思い悩むな」という教えが語られます。これはこの世のことで心配するなということなのでしょう。そして今日のたとえは「目を覚ましているしもべ」についてです。

 「目覚めていなさい」といっても四六時中起きているわけにはいきません。では今日のたとえでイエスは何を伝えたかったのでしょうか。「人の子は思いがけない時に来る」というのは世の終わりのことでしょうか。また、先週の福音にもあるように、この世のいのちが終わるときのことでもあるでしょう。そのために用意するということは大切ではあります。奈良県の防災CMに「奈良は災害のない安全な場所やなあ」とおじいさんが言っているところに地震が起きて「わー!」というアニメがありますが、それを思い出しました。もちろん減災のために準備するのは大切ですが、わたしたちはどのように世の終わりを準備するのでしょうか。
 世の終わりというと滅亡のイメージがあります。「ノストラダムスの大予言」がブームになり、先日の75日に日本で地震が起きるといううわさで中国人観光客のキャンセルが相次いだそうです。教会でも、自分の救いのために常に正しく生きるように教えられてきた歴史があります。聖人伝では聖人たちが世の終わりや人生の終わりを迎えるために、いかに心の準備をしてきたかが強調されていました。しかし、世の終わりは神の国の完成ですから、滅亡とは反対の出来事ではないでしょうか。
 そうすると、世の終わりへの準備とは、自分の救いのための準備ではないことになります。神の国の完成は、みんながしあわせに暮らせる世界がこの世に実現することですから、そのために祈り、自分にできる身近なことをすることではないでしょうか。以前にも書きましたが、「天に宝を積む」ということは、わたしが救われるために善行や祈りのポイントをためることではなく、この世での生活を大切にしながらも、それを超える神の国の喜びがあるということを心に持っておくということだと思います。それはわたしたちがこの世の人生を終えるときのための準備ともつながります。

 もうひとつ、人の子=イエスとの出会いはあの世に行ったときや世の終わりのときだけではありません。イエスはファリサイ派の人々に、「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」と言われました(ルカ1721節)。神の国はすでにわたしたちの間に芽生えている、ということです。そのために、毎日の生活の中のさまざまな機会にイエスが待っておられます。そして、それは教会の中だけではありません。社会の中で、イエスを知らない人も困っている人々のために時間を使っています。そこには神の国の芽生えがあります。
 わたしたちにとって「目を覚まして用意する」とは、日常生活の中でイエスとの出会いに気づきながら、神の国の実現を希望するということだといえるでしょう。

(柳本神父)

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