8月17日 年間第20主日 ルカ12章49~53節 苦しむ人々が中心の平和を求めて
今日は先週に続く箇所です。ルカの12章ではさまざまなイエスの教えが記されていますが、とくに後半は世の終わりについて語られる内容となっています。今日の箇所は世の終わりについて直接語られているわけではありませんが、内容から神の国について、そしてイエスが受けられる受難について語られていると考えられます。
イエスはいきなり、「わたしが来たのは地上に火を投ずるためである」と言われます。もちろん、世の終わりにこの世を焼き尽くすという意味でないことは、「すでに燃えていたらと願う」と言われていることからわかります。この火は信仰や宣教の熱意だとも考えられますし、また聖霊の火だと考えることもできます。
しかし、そのあとに言われるのは「地上に平和ではなく分裂をもたらす」という言葉です。ちょっとこれをそのまま受け入れるには抵抗がありますね。しかも、「火を投ずる」が聖霊を表すとすれば、聖霊は分裂ではなく一致をもたらす方のはずですね。さらに家族の対立をもたらすということも言われます。十戒には「父母を敬え」とあるにもかかわらずです。まあ嫁と姑、小姑との関係や家族間の対立は現実にはよくありますね。でもそれを勧めるというのは福音にそぐわないように思います。
イエスの福音は必ずしも耳に心地よいものばかりではありません。そこで大切なことは、福音とはだれにとって幸せの言葉なのか、そして神の国とはどういうところなのかということを念頭に置いて福音を読む必要があるということです。だれにとって―それは貧しい人々、体の不自由な人々、罪びととされている人々、家族のいない人々です。そのような人々にとって「家族仲良く幸せに暮らしなさい」と言われても、それは不可能なことです。また、「みんなで平和に過ごしましょう」と言われても、苦しめられている人々にとってはどうでしょうか。イエスは、平和を「世が与えるように与えるのではない」と言われました。それは、大国や権力を持つ人々が中心の平和ではなく、貧しい人々や弱い立場の人々が中心の平和だということです。
わたしは先日、比叡山宗教サミット38周年・世界平和祈りの集いに参加しました。38年前の比叡山メッセージにも、また、各宗派の方々のごあいさつにも「平和とは戦争のない状態のことではありません」という言葉がくりかえし語られました。すべての人々が喜びをもって生きることのできる世界が平和な世界です。そのためには、苦しみを受けている人々の視点に立って平和な世界を求めていく必要があります。
今年は戦後80年にあたります。日本での戦争の記憶が薄れつつある中、世界ではウクライナやパレスチナでの戦争が続き、幼い命が失われています。自国の平和を保つための戦争は真の平和をもたらすことはありません。わたしたちも、自分の仲間や家族だけの平和ではなく、すべての人々とともに歩む平和を求めていきましょう。
(柳本神父)
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