8月24日 年間第21主日

8月24日 年間第21主日 ルカ13章22~30節 身を低くして神の国に入る

 イエスはガリラヤ弟子たちとともにエルサレムに旅をします。その間に語られたとされる教えが、ルカの9章から19章にかけて集められています。その旅は受難と復活に向かう旅でもありました。そのため、イエスはこれらの箇所で受難や世の終わり、神の国について教えられています。

 「主よ、救われる人は少ないのでしょうか」という問いに対する答えから始まります。「救われる」というと死後の救いを考えるかもしれませんが、最後に出てくるように、ここでも神の国のあり方について教えられているといえるでしょう。
 狭い戸口というと「狭き門」という言葉を連想しますね。世間では大学入試や司法試験、大企業への就職などに使われます。難関を突破するために努力することは立派なことですが、その目的は多くの場合、人よりもよい仕事について稼ぎたい、お金持ちになりたいということと結びついています。それは神の国とは異なる考え方ですね。
 茶の湯に用いる茶室の入り口を「にじり口」といいます。高さは67センチ、幅は64センチと小さいので、身をかがめてひざをついて入らねばなりません。武士も刀をはずし、頭を低くして入るので、「茶の湯には身分の差は関係ない」という千利休の思想が反映されているといわれています。イエスが言われる「狭い戸口」と共通する考え方かもしれません。神の国には、武器や財産や身分を捨て、身を低くしないと入れないのです。残念ながら戦国武将や大名は、茶の湯を主従関係の強化に利用したといわれていますが、茶道の精神とは相いれないものですね。秀吉と利休の対立にもつながっているかもしれません。
 ところでイエスは、神の国に入れない人々についても語られています。それは「不義を行う者」だということです。一方でイエスは「罪びとを救うために来た」と言われ、徴税人や罪びとと食事をされました。ということは、「不義を行う」とは、自分は立派な人間だと思って他の人を見下している人、人の苦しみに目を向けず、自分の利益だけを考えている「おろかな金持ち」のような人のことだといえるでしょう。もしかしたら、律法学者やファリサイ派の人々に向けて言われたのかもしれません。彼らの多くは、自分たちは神に近い存在だとして、罪びとや異邦人を見下していたからです。

 イエスは「入ろうとしても入れない人が多い」と言われる一方で、「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」と言われます。なんだか正反対のことを言われているようにも思いますが、「自分は立派な人間だから神の国にふさわしい」と思っている人はなかなか入れず、「自分は罪びとだから神に助けてもらわなければ神の国に入れない」と思っている人が優先して入れるということではないでしょうか。
 わたしたちも、「みんなで一緒に神の国に行きましょう」という思いで助けを必要としている人に寄り添いながら神の国に向けて歩んでいきましょう。

(柳本神父)

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