8月31日 年間第22主日

 先週の福音のあと、ファリサイ派の人々数人が、ヘロデがイエスを殺そうとしていることを告げに来ます。ファリサイ派の人々にもイエスのことを認め、味方になる人もいたようです。その後イエスは安息日にファリサイ派の人の家で食事をするために入られます。招いた人はイエスに親しみを感じている人だったのでしょう。

 今日の出来事の前にイエスは水腫を患っている人をいやされます。集まっている人々はファリサイ派や律法の専門家なので当然イエスが労働を行ったということで批判します。では食事の準備をすることは労働ではないのか、という素朴な疑問がわきますが、その解釈は律法の専門家たちにまかせておきましょう。そのあと、今日の箇所では客が上座を選ぶ様子が記されています。日本社会では一般に上座を選ぶことは恥ずかしいこととされ、争って下座を選ぶ傾向があります。でも、本音では自分のほうが上だとか、あのあたりが適当じゃないかな、と思いながら下座を選び、あとで座ることになった席が思っていたより下だったらちょっと悔しいですね。また、「先着何名様」という売り出しや、推しのアーティストのコンサートの席は必死で並びますよね。政治家は役職や席次にこだわりますし。イエスの時代、指導者階級の人たちにとって席次はとても重要なことだったようです。それによってその人の社会的立場が決まるからです。しかしイエスは末席を選ぶように言われます。この末席とは、社会の中で恵まれていない人々を表しています。「へりくだる」というと、「偉ぶらずに人を立てる」「自分を下に置く」というような意味で考えますが、原文では「身分を低くする」という意味だそうです。ですから、末席を選ぶということは、身分を低くするということであり、さらに言えば、社会の中で末席に座らされている人々がいるということです。
 イエスがこの世で福音を告げたのは、そのような身分の低い、末席に座らされている人々、さらに言えば宴会にも呼ばれていない人々でした。そこにイエスが来られ、ともに食事をされるばかりか、ご自分が死刑囚になるという最も低い身分になられたのです。そして父なる神はそのイエスに復活の栄光を与えられ、天に上げられました。まさに末席に降られたイエスは最上席に迎えられたのです。「末席につく人」とは、イエスご自身とこの世で苦しみを受けている人々のことでもあったのです。

 イエスはその場にいた律法の専門家やファリサイ派の人々、そして弟子たちやわたしたちに「へりくだりなさい」と言われていますが、わたしはどちらかというと「低くされている人々」に目を向けるように教えておられるように思います。イエスもその一人だったからです。それに続く「お返しのできない人」も同じです。神の国の宴会には、神はまず「お返しのできない、身分の低い人々」を招かれます。イエスは、ここで神の国の宴会の主役はだれなのかを、わたしたちに示してくださっているのです。

(柳本神父)

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