9月7日 年間第23主日 ルカ14章25~33節 腰をすえて考えてみると…
今週の福音もイエスがエルサレムに向かう途上における説教です。先週福音のあと、宴会のたとえが語られますが、これは宴会つながりで神の国についての教えとなっています。今日はイエスに従う弟子の条件について語られています。
今日の福音は非常に厳しい内容となっています。とくに、自分の家族や命を憎みなさい、という言葉は受け入れがたいと感じるかもしれません。ここでの「憎む」という言葉は「嫌う」というよりも「少なく愛する」、つまりより大切なものを第一に考えるということです。だからといって、家族の反対を押し切って家を出て修道院に入る、あるいは海外の貧しい地域や戦争にあえぐところで働く生き方を選ばなければならないということではありません。自分の人生で最も大切なことは神に従うことである、ということです。
その中でイエスは「塔を建てようとする人」と「戦いを計画する王」のたとえを示されています。フランス北部のボーヴェという町の大聖堂は、石造りのゴシック建築では世界一の高さを誇ります。しかし、あまりに高く造りすぎて屋根が崩壊し、修復して中央に尖塔を建てたところまた崩れ落ちてしまい、現在は身廊にあたる部分がなく後半部分のみが使われています。有名なサグラダファミリアも未完成ですが、来年にはようやく完成すると言われています。いずれも当初の計画通りに行かなかったということですね。大阪万博も急激な物価の高騰や人手不足で当初の予算を大きく上回り、無事開幕したものの、見通しの甘さが指摘されていました。とはいうものの、それを「イエスに従う」ことに結び付けるにはちょっと無理があるように思えます。しかし、行き当たりばったりではなく、腰をすえて考えたときに、神がわたしに何を望まれているかが見えてくるということなのだと思います。
それにしても、イエスの言葉はわたしたちには受け入れがたいようにも思えます。神に従うにはそこまでしなければいけないのでしょうか。このような理不尽ともとれるイエスの教えは年間第20主日にも表れていましたが、イエスは常に社会の底辺にいる人々を中心に据えて神の国の福音を伝えてこられました。ある人は戦争で家族を失い、貧しい家庭に生まれた子どもは財産も持ち物も与えられず、戦争や飢饉によって命をつなぐことのできない人々がいます。このような人々はすでに十字架を背負わされているイエスの弟子なのです。「このような人々はわたしの弟子である。あなたがたも彼・彼女らに従いなさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。
わたしたちはこの世が神の国となるために、キリストに従う道を選びました。イエスの弟子となるということは、神の国のために働くということです。そこには自分自身との闘い、社会の価値観との戦いもあるでしょう。しかし、腰をすえて考えたとき、万軍の主である神がともにおられることに気づくことができるはずです。
(柳本神父)
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