9月14日 十字架称賛

9月14日 十字架称賛 ヨハネ3章13~17 独り子を与えるほどに世を愛された

 5世紀のエルサレムでは9月13日の復活聖堂の記念日の翌日にキリストの十字架を礼拝する習慣がありました。それで今日は十字架称賛の祝日となっています。本来は年間第24主日ですが、今日は祝日の典礼となっています。祭服も聖金曜日と同じ赤を用います。
 福音はイエスがご自分の十字架を予告されるヨハネの福音の箇所からとられています。

 第一朗読ではモーセがかかげた青銅の蛇を仰ぎ見た人々が命を得た場面が朗読されます。福音ではそのように人の子(イエス)も木の上に上げられなければならない、とイエスご自身が言われます。モーセがかかげた青銅の蛇はイエスの十字架の予兆とされています。イエスの十字架によってわたしたちも永遠の命を得ることができたからです。蛇というとアダムとエバの物語から悪魔の象徴とされていますが、蛇=悪魔なのではありません。むしろ、ここでは救いのシンボルとなっています。
 まだ昭和の時代、一時期ダジャレの怪談が流行ったことがありました。わたしが神学部に入学してすぐに、新入生の合宿があったときの交流会で、一人の神学生が「悪の十字架」という話を始めました。ある人がデパートに行ったらまだ閉まっていて、開店時間の表示を見て『開くの十時か~』と嘆くというたわいもないものですが、それを聞いていたイエズス会の神父さんは明らかに不快な表情でした。冗談とはいえ、十字架を悪だということに耐えられなかったのでしょう。しかし、その神父さんは怒らずに「わたしは善の十字架という話をします」と話し始められました。イエスの十字架はわたしたちの救いのための「善」だという話でした。そう、イエスの十字架こそは神の善のたまものですね。
 イエスは今日の福音で、「信じる者が永遠の命を得るためである」と二回繰り返されます。人の子が上げられる、つまり十字架につけられるのは神が世を愛されたしるしであることがそこに表わされています。「世」は「この世」を表します。聖書においては「世」は「天」に対する存在であり、否定的に語られているように感じられます。たしかにこの世の世界には、戦い、憎しみ、貧富の差や環境破壊など、罪と悪が存在します。この夏が異常な暑さだったこともあって、集まれば「この世界はどうなっていくのだろう」と心配になる話題ばかりです。しかし、その一方で、人権の尊重、被災地への支援、ボランティア活動、社会福祉の充実など、以前よりも良くなっているものもあることも忘れてはなりません。神はこの世に確実に神の国の芽を育ててくださっているのです。

 今日の第二朗読は十字架賛歌ともいうべき、すばらしいものです。「すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて」とあるように、この世のすべての命が神を讃える神の国の姿が表わされています。イエスが言われた「信じる者」とは信者のことだけではありません。神の望みはすべての人が一人も滅びないで、神の国に集うことです。「神は世を愛された」、このことばはすべての人の救いを表しているのです。

(柳本神父)

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