10月12日 年間第28主日 ルカ17章11~19節 わたしたちの真の祭司
今日の福音は先週の続きです。エルサレムに向かうイエスの旅は受難への旅でしたが、その途中の出来事です。ユダヤ人と対立するサマリア人は、エルサレムに対抗してゲリジム山に聖地を設け、また他の神々を礼拝する移民が住んでいたため、ユダヤ人からは異邦人とみなされていました。ガリラヤはサマリアの北の地方でしたが、ユダヤ人が多く入植して住む地域でした。十人の病人にユダヤ人とサマリア人がいたのはそのためでした。
10人の病人は病気が伝染するということで、村でも離れたところで共同生活をしていたようです。イエスの一行は村の中心部に入る前に彼らのいる場所を通ったのでしょう。彼らはイエスが来たことを知ると真っ先に出迎え、離れたところから声を張り上げていやしを願いました。イエスの評判は彼らにも伝わっていたのでしょうか。
イエスはとくに何もする様子はなく、ただ祭司に体を見せに行きなさい、とだけ告げられます。皮膚病が完治して社会復帰できるかどうかを判断し、清めの儀式を行うのは祭司の役目でした。しかし、その時点では彼らの皮膚病はまだ治っていません。しかし、イエスの言葉に従って祭司のところへ向かいました。ユダヤ人とサマリア人の祭司は別々だったので、それぞれの祭司のところに向かったのでしょう。
ところが9人と別れたサマリア人は、途中でいやされたことを知ると神を賛美しながらイエスの元に戻って感謝しました。そこでイエスは「ほかの9人はどこへ行ったのか」と言われます。なんだか彼らが感謝しないことを責めているように思えます。井上陽水さんの「感謝知らずの女」という歌がありましたが、「♪だからあなたは感謝知らず、感謝知らずのお~と~こ~♪」と歌いたくなりますね。しかし、ユダヤ人の9人は、自分たちの祭司のもとに向かっていたのです。イエスの言われることに従ったのに責められるなんて、ちょっと気の毒に思いませんか?
それでここではこのサマリアの人の信仰について考えてみる必要があります。彼は自分の皮膚病がいやされたのは神のわざがイエスを通して働いたということに気づいたのでしょう。イエスが救い主であると感じたのかもしれません。しかしイエスはユダヤ人でした。本来ならば彼にとって「主」と呼べる存在ではなかったはずです。けれどもイエスを通して彼は天の父と出会うことができたのです。まさにイエスこそは父とわたしたちの仲介者、祭司であったわけです。彼はイエスの命令通り、真の祭司のところに戻ったのです。
先週の福音は、イエスが信仰について語られる箇所でした。今日のサマリア人は、自分の身に起こったことが神のわざであることを知って信じました。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言われましたが、それは信仰があったからいやされたのだというよりも、そこに神の働きを信じ、そして真の仲介者である主を信じることこそが救いであるという意味なのではないでしょうか。
(柳本神父)
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