10月26日 年間第30主日

10月26日 年間第30主日 ルカ18章9~14節 罪びとのわたしをあわれんでください

 今日の福音は先週の続きです。少しテーマは違うようですが、「神に祈る」という意味ではつながりがあるようです。今日は二人の違う立場の人の祈りのたとえを通して、神とわたしたちの関係について教えられます。

 イエスは「正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々に対して」このたとえを語られます。それはたとえにも出てくるように、ファリサイ派の人々に向けて語られたと考えられます。彼らは必ずしも敵対者とは限らず、イエスの教えを聞きに来る人も多かったようですが、自分たちは律法を守る正しい人間だという誇りは持っていたようです。それでイエスは彼らに回心を呼び掛けられました。この教えは隣で聞いていた弟子たちにも戒めとして伝えられました。もちろん今のわたしたちにも。
 今日の福音に登場する二人は反対の立場です。ファリサイ派は当時のユダヤ教では宗教的エリートでした。一方、徴税人はローマ帝国に納める税金を取り立てる仕事をしていました。他国に税金を納めるのはユダヤ人にとって屈辱でもあり、さらに徴税人は手数料を上乗せして自分の利益を得ていたので大変嫌われる存在でした。いわばお金儲けのために祖国を裏切ったとみなされていたのです。
 そのような二人が神殿で祈りました。ファリサイ派の人は神さまに自分がちゃんと律法を守っていることを宣言し、罪を犯していないことを感謝しました。この人は自分を立派に見せるためにうそをついたのでしょうか。そうではありません。彼はちゃんと断食し、収入の十分の一をささげていました。また、徴税人は、ほんとうはちゃんと務めを果たしているのに「自分は罪びとだ」と祈ったのでしょうか。そうではありません。やはり、この人は律法を守らず、罪を犯していたのです。
 「へりくだる」というと心ではそう思っていないのに自分を低く見せる、というイメージがあります。「つまらないものですが」とか「未熟者ではございますが」とか。さらには自分の子どもまで「愚息」「豚児」と呼ぶこともあります。豚の子は言いすぎですよね。しかし、「義とされた」徴税人は自分を罪びとだと自覚して祈りました。低く見せたのではなくありのままの自分をささげました。一方、ファリサイ派の人は隣の徴税人や他の人々と自分を比べて感謝しました。それが神に受け入れられなかったのです。

 神さまはわたしたちのすべてをご存知です。ファリサイ派の人は、「ほら、わたしはここに来ていますよ」と自分のことをアピールしたかったのでしょう。そして、彼の心は隣の徴税人や他の罪びとを意識していました。そんなことは神さまの前では無意味なのです。
 わたしたちも祈るとき、いろいろなことが心に浮かび集中できないことがあります。でもそれはわたしたちがこの世を生きているしるしです。そのことも含めて、「このような弱いわたしを憐れんでください」と祈ることが大切です。

(柳本神父)

PDFはこちら → 10月26日説教 年間第30主日

PAGE TOP