11月2日 死者の日 ヨハネ6章37~40節 この世とあの世を結ばれるイエスの愛
今日は年間第31主日ですが、11月2日にあたりますので死者の日の典礼を行います。調べてみたら2014年以来ですね。11月はカトリック教会で死者の月とされています。10月31日がハロウィンで死者の霊が返ってくる日だから、と思われがちですが、実際はキリスト教で諸聖人祭と死者の日が11月初めに行われることから、ハロウィンの日付が動いたようです。いわゆる「西洋のお盆」ですが、キリスト教的には死者の霊が帰ってくるという考え方はありません。
それで今日の福音は、イエスが永遠の命について語られる箇所です。ここでイエスは「父がわたしにお与えになる人」について話されます。これはどのような人々のことなのでしょうか。二つの考え方があります。このあと言われているようにこれは「子を見て信じる者」だと考えることができます。具体的にはキリスト信者であるといえるでしょう。もう一つの考え方は、父がイエスをこの世に遣わされたのは、すべての人を救うためであるという考え方です。今日の第二朗読でパウロは、「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は」と述べています。「わたしたち」は迫害を受けていた当時のキリスト者のことだと考えられますが、「すべて」という言葉に思いが込められているのではないでしょうか。
イエスはわたしたちの罪をあがなうために十字架につけられました。その「罪」と「あがない」にはキリストを信じる者と信じない者、ユダヤ人と異邦人などの区別はないはずです。そのように考えたとき、やはりイエスはすべての人の罪を担って十字架上で命をささげられたと考えることができます。
一方で、福音書には信じる人と信じない人の区別が強調されています。ほかの箇所でも、信じない人に対する「裁き」が語られています。「裁き」というと死後の審判のイメージがあります。街角で「死後裁きに会う」という看板を見てドキッとすることがありますね。しかし、ヨハネの福音3章に「光よりも闇の方を好んだ、それが、もう裁きになっている」とあるように、「裁き」はこの世のことでもあるのです。この世において、イエスの愛を感じ、それを喜びとすることができれば、幸せな人生だといえるでしょう。
キリストを信じる者の使命は、その喜びを一人でも多くの人と分かち合うことです。それによって、この世の人々に主の救いの喜びが広がっていきます。自分が死後救われるかどうか、心配しながら生きることをイエスはお望みになりません。それよりも、主の救いがすべての人に開かれていることに信頼し、希望の内に生きることが大切です。そして、その喜びはこの世とあの世を越えてつながります。お盆やハロウィンのように、死者が帰ってくることはありませんが、生きている者もあの世にいる者も、常にイエスの愛によって結ばれています。死者の日はそれを記念する日なのです。
(柳本神父)
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